勝つのはどっち?
大坂落城の直前、島津義弘・家久親子より細川忠興への使いが肥後に来た(この時、忠興の領地は豊前小倉なので豊前の間違い)。忠興が島津家の使者にお茶を出して応対していると、細川家の家臣・加賀山隼人が大坂より到着したとの報告があった。
「ちょうどいい。ここで隼人の話しを聞いて島津の御親子にも伝えるといい」
忠興と島津家の使者の前に出た隼人は上手に大坂の様子を語り始めた。
「大坂での合戦は豊臣秀頼公の勝利だと思います。理由は、浪人達は良い武士が多く篭り、兵糧も不足はありません。城は天下の名城で攻め落とすのは難しい。昔、一向宗の坊主が篭った時でさえ織田信長公は7年も攻め落とすのに手間取った。今度は良い武士が篭城しているので、たとえ勝利できなくても合戦には時間がかかるでしょう」
しかし忠興の評は違っていた。
「私は逆に近々落城すると思う。それは秀頼は乳飲み子(のような精神年齢)で、豊臣軍は淀殿が指揮している。その下の組頭達は誰もが徳川家にも関係があり、酒井忠世や酒井讃岐守の婿もいれば江戸に屋敷がある者もいるので、恐るるに足りない。浪人達は忠節を尽くすだろうが、一向宗の坊主が篭った時とは状況が違う。あの時は信長公に敵が多かった。甲斐の武田、越前の朝倉、近江の浅井、丹波の赤井、中国の毛利、四国の長宗我部、長島の一向宗、高野山、その他にも敵がいたので、自由に攻められなくて7年もかかってしまった。今、日本は家康公の命に従うので、大坂の落城は近いだろう」(『久国談話』)
北九州市小倉北区城内2−1にある小倉城
UPDATE 2005年7月3日
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