出家

 大坂落城後、京都の八幡で捕まった長宗我部盛親は生け捕られて伏見に連れて来られた。そこで盛親は膝をかがめ人々にへつらい涙を流して哀願。
「両将軍(家康・秀忠)は慈悲深い性格のお方だ。だから私の命を助けて出家させてくれるように頼んでくれないか」
 世間の人は盛親を嘲った。
「長宗我部は臆病者だ。あの未練たらたらの心で大事に関係したとは」
 しかし両将軍はその真意を察して、1615年5月21日(5月15日の間違い?)、ついに六条河原に引き出し、敷皮(熊・鹿などの毛皮で作った敷物)の上に座らせた。
 覚悟を決めた盛親は
「本国に帰って旗を揚げ恥を雪ごうと思ったが、さとられてしまった」
 と言った後、処刑された。そして首を晒され、体は捨てられて鳶や烏に啄まれた。哀れに思った京都五条町蓮光寺の住職は、京都所司代・板倉勝重のところに行き懇願した。
「名将の死骸を見るもいたましい状態にしておくことは忍びない。お許しいただければこちらで引き取りたい」
「奇特な申し出、感心なことだ。その他に言いつけることはない。出家の道はそのようにあるべきだ」
 勝重は許し、翌日米一石と白銀十両を渡した。その予算で蓮光寺は石塔を立てねんごろに弔っている。(『韓川茶話』)

蓮光寺
京都市下京区富小路通六条上る本塩竈町534にある蓮光寺

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