えこひいき

 大坂の陣後、細川忠興は手廻(大将の側近くで護衛するもの。親衛隊)の戦功を調べるため日時を定めて領地の小倉に戻り、家中の者を残らず集め評議が開いて、誰が一番の活躍をしたかを話し合った。
 藪興左衛門(藪正利のことか?)という者が一番槍なのは間違いないが、最前に七助という者がおり、互いに言い分があるため、どちらの戦功が一番なのか分からなかった。忠興も判断が出来ず家老達に判断を任すと、話し合いの結果、全会一致で七助が一番、興左衛門が二番ということになった。加増の石高は同じ1500石となったものの興左衛門は納得できず腹を立てた。
 この結論には裏があった。七助は忠興に可愛がられていたため、せっかく一番槍より進んでいたのだからと、忠興の判断で七助に有利になるように便宜を図っていたのだった。
 しかし別の評議の場でそんな事情など知らない歩行(かち)の者達3人が、誰も七助の姿を見ていないと言い始めた。それを聞いた忠興は
「家中の者は私に見る目がなかったと思っているだろうから会わせる顔がない。昔、織田信長公が『用に立人の目利はならぬ者』と言われたという。名将の言葉、今思い知らされた。七助は本来ならば切腹させるところだが、小者がいたところにすらいなかったとは、小者に劣る人物だ。縛り首にしろ」
 と命じたため、七助はそのまま処刑されている。(『山本日記』)

小倉城
北九州市小倉北区城内2−1にある小倉城

管理人・・・『用に立人の目利はならぬ者』という意味が分かりませんでした。ご存じの方はメールで教えてください。

UPDATE 2013年11月5日
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