和議に賛成

  1614年12月中旬、和議について話し合っていた豊臣家上層部は、浪人たちの意見も聞こうと、後藤基次真田幸村などを集めて、思っていることを述べさせた。
 まず基次が発言。
「今度の篭城で故太閤(豊臣秀吉)恩顧の諸大名は力を合わせて駆け付けるべきなのに、恩を忘れ義理を捨てて使者を殺すか捕まえるなどして、誰も味方をしませんでした。鉄砲の弾や薬莢、兵糧には限りがあります。重ねて補給のあてもなく、敵を追い払う手立てもありません。和睦した方が良いかと存じます」

 幸村も基次の意見を推した。
「豊臣軍が心を一つにして防ごうとしても、援軍がなければ最後には落城するのは間違いないだろう。しかしこの頃、城の南北の持ち口の体たらくはひどい。今、敵兵が急に攻めれば城の兵は顔色を変えて逃げていくだろう。この前の5日に藤堂高虎が攻めてきた時も(真田丸の攻防)侵入されかけた。こんな調子では守れるはずがない。敵から和睦の提案があったのは渡りに舟だ。早くした方がいいだろう」
 二人の意見を聞いた皆は理に叶った答えだと納得した。

大阪城天守閣
大阪市中央区大阪城にある大阪城天守閣

 そこで織田長益大野治長は話し合いの結果を淀殿に報告。
「御親子(豊臣秀頼と淀殿)で自害して兵士の助命をするか、和睦をして機会を待つかこの二つしかありません」
「城内の軍勢がそれほどに弱っているとは。昔、源頼朝は朽木の洞窟に隠れて命を繋ぎ最後には天下の主となった。秀頼は秀吉の息子だから生きて機会を待てば積善の余慶(善行をつみ重ねると思いがけない慶事で報われること)もあるだろう。このことを秀頼に話して説得しましょう」
 淀殿は涙ながらに秀頼の説得を約束した。(『難波戦記』)

淀殿の墓
大阪市北区太融寺町3−7の太融寺にある淀殿の墓

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