大阪城周辺の史跡・平成15年(1日目)

 平成15年10月22日、NHK大阪放送局であった『この地で歴史が動いた(関ヶ原から大坂の陣へ)』というシンポジウムを聞きに大阪に向かう。翌日、朝から大坂の陣関係の史跡巡りに出発する。まずは木津川口の戦いの跡と思われる場所へ。

木津川小学校

木津川小学校:当時と地形が変わっているのでなんとも言えないが、多分この辺りに木津川口の砦があったと思われる(と思ったんですが、あとで間違いに気がつきました)。

大浪橋から見た木津川

大浪橋から見た木津川:上記の木津川小学校の近くにある大浪橋から見たものです。当時と比べると川幅がかなり狭くなっています。

 次は野田・福島の戦いの跡へ。と言ってもこっちも何も残ってなかったですが。

上福島小学校

上福島小学校:池田忠継が放火した上福島のあたり。それだけ。

野田城址

野田城址:織田家と本願寺との戦いなどで拠点の一つだった場所。大坂の陣当時は廃城になっていたと思われるが目印くらいにはなっていた気がします。

 続いては博労淵の戦いの跡へ。もちろんここも何一つ残っていません。

西区役所

西区役所:なんとなくですが西区役所付近にこの辺りに博労淵の砦があった気がします。



 次は真田幸村が1615年5月6日の道明寺の戦い・後半戦の後で大坂城に戻る途中に休憩を兼ねて戦勝祈願をした志紀長吉神社へ。

志紀長吉神社

志紀長吉神社:幸村はここに戦勝の祈願をして六文銭の旗と刀剣を奉納しています。そのおかげで翌日の戦いで大活躍できたのかな?

真田幸村休憩所跡

志紀長吉神社:当時、ここは上記の神社の馬場にあたり、幸村隊が休息したとのこと。志紀長吉神社を南下して道を越えた九州ラーメンのお店の横にあります。門もありしっかりと整備されていました。
 ここの入り口に平成15年6月吉日(おそらく旧暦の5月7日前後)に建った由緒書きの石碑がたっていました。

 続いて続いて徳川家康が真田幸村に危うく爆死させられかけた樋ノ尻地蔵とその周辺の史跡に向かう。

樋ノ尻地蔵

樋ノ尻地蔵:1615年5月7日、大坂城総攻めの直前、真田幸村はこの辺りに徳川家康が休憩をすると予想して地雷をしかけた。予想があたって家康はここで休んだが彼がちょっと席をはずした時に(トイレとかだったらしい)、地雷が爆発して難を逃れたという。
 残念だったね、ユッキー(゚◇゚)~ って真実かどうか怪しいけど。

安藤正次の墓

安藤正次の墓:正次は徳川家の二千石の旗本。天王寺・岡山での最終決戦で奮戦し首級を挙げたが重傷を負い家来に助けられて撤退した。その活躍を秀忠に褒められたものの、自分が再起不能だと分かって同月19日に自害した。
 このお墓は息子の正珍が建てたものだそうで、樋ノ尻地蔵の道を挟んで向かい側にありました。彼のことは気が向いたら調べてみようかな。

全興寺

全興寺:樋ノ尻地蔵の場所で地雷が爆発した時にここまで地蔵の首が飛んできたそうです。地蔵からは300メートルくらい西にあります。
 首は写真の建物の中にありますが、特別な日にしか公開されていません。ちなみにここは『ぜんこうじ』ではなく『せんこうじ』と読むそうです。

大念佛寺

大念佛寺天王寺・岡山での最終決戦で真田幸村に追い立てられた徳川家康が逃げ込んで豊臣軍を入れなかった寺らしいですが、寺の人すら詳しいことをご存知ありませんでした。全興寺から北西に400メートルくらいのところにありました。

 平野地区はこれで終了。その後、真田幸村の住居跡に行くが調査不足&時間がなくて場所が分からず終いで23日の予定は終了しました。


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