紀州一揆

(きしゅういっき)

徳川軍浅野長晟軍(兵数は本文を参照)
豊臣軍:一揆勢(兵数は本文を参照)
戦  場:紀伊国内

【燃え上がる紀州魂】1614〜1615年の間に大坂の陣の影響で各地で一揆が頻発したが(大和・丹波・摂津・伊勢など)、その中でもっとも激しかったのが紀伊である。紀伊は元々、守護の力が弱かったため一国を束ねる大名がおらず、高野山・熊野大社などの寺社勢力と土豪層が勢力を振るっていた。
 しかし1585年に豊臣秀吉の紀州征伐で豊臣政権下に組み込まれてしまう。それでも国主となった豊臣秀長は厳しい統制をせず土豪層の権益がある程度守られたため一部を除いて表立って反抗することはなかった。
 だが関ヶ原の戦い後に新しく国主となった浅野家は、27万石だった石高を徹底的な検地で隠し田が摘発したりするなどして37万石にまで地積を増加させたため、紀州人は浅野家に対する激しい恨みを抱いた。

北山郷
北山郷の風景

【熊野一揆】それが元で大坂の陣が勃発すると土豪層の武士達が大坂へ入城し紀伊奪回を計った。主な人物には新宮行朝堀内氏久兄弟、山口兵内などがいる。残った者達も紀伊を取り戻そうと、浅野軍が大坂へ出陣するとこれに合わせて北山郷周辺の32ヶ村・3000人が蜂起し新宮城に迫った。しかし留守をしていた戸田勝直らはこれを奇襲し撃破。有田・日高郡などでも一揆が発生したが、こちらも鎮圧されてしまう。残った一揆勢は北山村に終結したが、1614年12月27日、帰国した浅野軍と留守兵が合流し一揆勢を壊滅させた。

熊野川
一揆勢と浅野軍が戦った熊野川

【日高・名草一揆】だがそれで反抗の芽が摘まれた訳ではなかった。1615年4月、大野治長は部下の北村善大夫などを紀伊に向かわせ、大坂から南下する豊臣軍と一揆勢で外と中から浅野軍を撃滅する計画を実行しようとした。しかしこれは浅野軍に知られてしまい北村善大夫は泉佐野で捕えられてしまう。しかも豊臣軍は4月29日の樫井の戦いで敗れてしまい計画は完全に破綻する。
 それでも一揆勢は湊惣左衛門を首領として日高・名草郡などで再び蜂起するが、和泉から引き返してきた浅野軍に各個撃破されすぐに鎮圧された。首謀者で生き残ったものは探し出されて次々と処刑され、最終的には49ヶ村・806人が処分された。これ以降、紀伊の土豪層は完全に抑え付けられ反抗できなくなってしまう。

紀州一揆・蜂起図
紀州一揆・蜂起図

管理人・・・一揆勢、烏合の衆の悲しさかまったくいいとこなしです・・・。熊野一揆・日高・名草一揆共に豊臣軍との連携で行われており、勝利した暁には紀伊一国を一揆勢に与えるとの約束がありました。
 日高・名草一揆で一揆勢が和歌山城を攻めて、それを浅野軍が奇計(本丸だけに兵を集め撤退したと思わせて一揆勢を城の中に誘い込み、これを殲滅した)で撃退したのが有名ですが、どうもこの話は怪しいみたいです。
 豊臣軍は夏の陣では兵が少しでも欲しかったのか、浅野家に関西の5ヶ国を与える約束(内3ヶ国は家臣達へ)をしていたそうですが断られています。以上、紀州人が意地を見せた紀州一揆でした。

一揆殉難者供養之塔
三重県南牟婁郡紀和町の田平子峠にある一揆殉難者供養之塔

UPDATE 2002年8月2日
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