花房職秀

(はなぶさもとひで)

生没年:1549〜1616年/ 身分:備中高松8千石の領主/ 官位(通称、号):助兵衛

岡山城
元主君・秀家の居城、岡山城

 宇喜多家の家臣だった花房職勝の次男。1567年に足軽大将として出陣した。1659年には毛利元就の四男・毛利元清と戦う。1570年からは美作に荒神山城を築いて国の経営を任された。1577年からは赤松軍と戦い、1579年には後藤勝基を滅ぼす。1582年に備中高松城攻めに参加した。
 小田原征伐の際に職秀は豊臣秀吉の陣前を下馬をせずに通り過ぎた。それを番兵が咎めると「戦場で能などをして遊んでいる大将に下馬などできるか」と言い秀吉の方に向かって唾を吐いた。当然秀吉は激怒し、宇喜多秀家に縛り首にするように命じたが、しばらくして考えを変え、切腹にするように変更する。その後、またも考えを変えて「わしにそのようなことを言える男を殺すのは惜しい。命を助けて加増させる」と命じている。
 朝鮮出兵に出陣したが、帰陣後の1595年に秀家を諌めて勘気をこうむり佐竹義宣に預けられる。関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い功があり8千石の領地を与えられた。大坂の陣が起こると大名になる望みを賭けて出陣したが加増はなかった。この時、輿に乗って指揮をしたという。1616年死亡。法名・道恵。

妙玄寺
岡山市高松にある花房家の菩提寺・妙玄寺

管理人・・・職秀は、関ヶ原の戦いの際、家康から佐竹氏の去就を尋ねられた。
「佐竹義宣が手向かってこないか」
「おそらく来ないでしょう」
「では起請文を書け」
 しかし職秀は
「男が言ったことゆえ文章にする必要は無い」
 と断っています。家康としては諸将の動揺を抑えるためにそう命じたのですが、家康の真意が職秀には分からなかったため戦後大名になれず、それをずっと悔いていたそうです。
 勇将で大坂の陣でも活躍しており、備前島で後藤又兵衛の伏兵を見破っています。この時、基次は味方の一部から嘲笑されました。
「予想が当たらなかった」
 しかし又兵衛は反論。
「敵に職秀がいたのだろう」
 よく分かりませんが、大坂の陣の頃は名前を職之で通していたみたいです。多分、秀家の秀の字を捨てたんでしょう。以上、渋い感じのする花房職秀でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2002年2月21日
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