喜多長能

(きたながよし)

生没年:1586〜1653年/ 身分:能楽師/ 官位(通称、号):左京・七太夫

豊臣秀吉の像
名古屋市中村区中村町木下屋敷22の妙行寺にある豊臣秀吉の像

【能の天才】堺の眼科医・内堀道春の三男。父・道春の能の師匠・勘太夫がその才能を見いだし、豊臣秀吉に推薦した。僅か7歳で『羽衣』を演じて秀吉にも気に入られ「すでにひとかどの太夫」と褒められる。その後、北政所に預けられた。時期は不明だが北長宗の養子となる。金春座座長・金春安照の女婿となるが、やがて独立し喜多流を確立し、その祖となった。

【豊臣家に尽くす】秀吉が亡くなった後も豊臣秀頼に仕え、能の発展に尽力する。大坂の陣でも豊臣軍に付き、天王寺・岡山での最終決戦では真田幸村隊に属して戦った。大坂が落城すると大和(博多とも)に逃亡し隠遁していたがやがて捕らえられる。処刑されかけたが、1618年に藤堂高虎黒田長政の助命で能楽師として復帰した。
 1634年の『関寺小町』を演じ絶賛されるが、他の流派から相伝が曖昧などの理由で訴訟を起こされ、1635年に閉門させられる。翌年に許されたものの二度と舞台には立たないまま1653年に死亡した。

能舞台
能舞台(写真はイメージです)

管理人・・・金春安照というのは、豊臣・徳川家などたくさんの武家から恩恵をこうむるほど芸に優れており、金春座(能の大和猿楽四座の一つ。秦河勝を祖とし、秦氏安を中興とするという、大和の円満井(えまい)座(または竹田座)から出たもの。金春)の全盛期を築いた人なんだそうです。
 北政所に預けられていた時代に秀吉について回ったのでそれに嫉妬した連中から『ロッペッタ(どこの国の言葉かは不明だが外国語で巾着、転じて腰巾着のこと)』とあだ名されたそうです。
 捕まって処刑されそうになった際に「恩に報いるのは武士の能楽師も同じ」と毅然として言ったので、それが秀忠の耳に入って助命される理由の一つとなったそうです。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大阪人物辞典

UPDATE 2002年2月27日
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