樋口雅兼

(ひぐちまさかね)

生没年:?〜1619年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):淡路守

米子
重房の出身地である伯耆の中心・米子(よなご)

【出世】伯耆の地侍の息子。天正年間の中国征伐の際、豊臣秀吉に臣従したと言われている。1578年に播磨国内で100石を与えられる。1579年の三木城攻略で豊臣秀長軍に属して、2月6日に別所軍が秀吉本陣を攻撃してきた時、三木城主・別所長治の弟・長定を討ち取っている(平山の戦い)。
 1583年に近江国内で1万7千石を与えられ大名となった。しかし関ヶ原の戦いで西軍に属したため、所領を没収され浪人となってしまう。

【水軍の中心人物】大坂の陣が起こると、大坂に入城し船奉行となる。1619年11月19日の木津川口の戦いでは5艘の船を率いて蜂須賀至鎮の水軍を迎え撃ったが、船を捕縛されてしまっている。
 大坂落城後は知り合いだった堀尾忠晴に寄食し、1619年に亡くなった。大坂の陣当時は60前後だと思われる。

管理人・・・水軍を任されているいうことは多分、琵琶湖の近くに領地があったか、朝鮮出兵で水軍を率いていたかでしょう。なんで伯耆から播磨まで行ってたんでしょうか? 都会で一旗上げようとしたのか、毛利軍に追い出されたのか、理由はよくわかりません。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年2月6日
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