藤堂元則
(とうどうもとのり)
生没年:1582〜1660年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):采女
若江の戦いで激戦地となった八尾市西郡
【増田家の家臣】本姓・保田。父は服部半蔵則直。則直は紀伊保田庄の豪族で元は保田則直と言ったが、伊賀予野の服部氏の養子となり服部姓を名乗った。則直は千賀地谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれる。元則は則直の次男として生まれ伯父の保田栄西の養子となって保田姓を名乗り、伯父と一緒に増田長盛に仕えた。
【藤堂家へ】関ヶ原の戦いで増田家が改易されたため、1601年に藤堂高虎に仕え1500石を与えられる。1606年に兄・則宗と共に徳川家康に謁見し、彼の命令で藤堂姓に改めた。大坂冬の陣に従軍し功があって500石を加増される。
夏の陣にも従軍し八尾・若江の戦いで、井伊直孝軍への軍使として向かい、玉串で高虎の言葉を伝えた。そしてそのまま木村重成隊と戦い首級を得た。この働きを直孝に賞され自身の槍を授けられる。翌日の戦いでは八尾での先鋒の壊滅により左先鋒の一人となった。
高清が城代を務めていた伊賀上野城
【普請監督】陣後、それらの功により合計5千石の領主となる。1628年に大坂城に赴き普請監督を務めた。1640年に伊賀上野城代の藤堂高清が死亡したため次の城代となる。1651年に隠居し家督を息子に譲って可休と号した。その後、病気となり京都で療養したが回復せず1660年5月24日に死亡する。遺体は京都の黒谷で火葬され伊賀長田村の西蓮寺に葬られた。妻は佐伯惟定の娘。
管理人・・・元則は土木関係に強かったようで、高虎の築城の手伝いをよくしています。兄の則宗は家康に仕えて3千石の旗本となったそうです。また父は有名な服部半蔵正成とは別人です。関係もよく分かりません。
UPDATE 2002年9月18日
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