仙石忠政

(せんごくただまさ)

生没年:1578〜1628年/ 身分:信濃小諸5万石の大名/ 官位(通称、号):兵部大輔

小諸城
忠政が城主だった長野県小諸市丁311にある小諸城

 仙石秀久の三男。長男の久忠は盲人で検校(盲人の僧侶に準ずる位のこと。盲人に与えられた最高の官名になる)となり、次男の秀範は関ヶ原の戦いで豊臣家につき廃嫡となったため、1614年6月、父の遺領を継ぎ小諸城主となった。
 大坂冬の陣で黒門口を担当し、夏の陣では首級11を得る。戦乱が無くなると、逃散した百姓の帰村、浪人の帰農などを進め荒廃した領内の安定に力を注いだ。1622年、同じ信州の上田6万石に移封される。上田ではそれまでの城主だった真田家の旧臣が土豪化して存在していたがこれの兵農分離を進めて、領内を8つの組で構成し各村に庄屋を置くなど支配体制を強化した。1628年4月20日に死亡。江戸の高輪東禅寺に葬られる。

上田城
忠政が城主だった上田城

管理人・・・忠政は1626年から上田城の修築にとりかかってますが、工事の途中で死亡したため中断され、そのまま再開されずに明治維新を向えたそうです。再開されなかったのには理由があって加藤貞泰の家臣だった加藤光尚が加藤家を辞し仙石家に来たのですが、いきなり筆頭家老になったため、家臣同士がもめた上に、その最中に忠政が死亡してしまい、家中をまとめる者がいなくなってしまいました。
 そのため騒動が大きくなり幕府の大目付から政道不正ありと訴えられて、工事どころでは無くなってしまいましたが、1635年に加藤光尚一族が上意による討手によって殺され解決したそうです。この時、初めて忠政の跡を継いだ政俊が8年目にしてやっと江戸から上田城に入っています。取りつぶしにあわなかったのは秀久・忠政の忠勤がよっぽどのものだったからでしょう。

参考文献三百藩藩主人名事典・米子城主 加藤貞泰とその家臣団(T・U)・戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜

UPDATE 2002年8月13日
Copyright (C) 2002 Tikugonokami.