加藤貞泰

(かとうさだやす)

生没年:1580〜1623年/ 身分:伯耆米子6万石の大名/ 官位(通称、号):左近大夫将監

甲府城
父・光泰が城主だった山梨県甲府市にある甲府城(府中城)

【美濃へ】甲斐府中城主・加藤光泰の息子。1593年に光泰が亡くなった際に14歳だったため、幼少では要所を治めにくいと判断され、美濃黒野4万石に移封となった。貞泰は伏見城で豊臣秀吉に家督を継がせてもらったお礼を言うと、黒野築城に着手し1598年に完成させている。
 1600年に石田三成が挙兵すると、竹中重門・関一政らと美濃犬山城に籠もったが、東軍と通じており、弟・平内光直を東軍に人質として送った。しかし西軍に属しているふりをしている立場上、三成にも家臣の娘を自分の子と嘘をつき送っている。
 東軍が岐阜城に入ると、貞泰は徳川家康の元を訪れ東軍に寝返り、井伊直政の指揮下に入って、大垣城攻め・島津義弘との戦い・水口城攻めなどに参加している。その功で所領を安堵された。

米子城跡
貞泰が城主だった鳥取県米子市にある米子城跡

【米子へ】1610年7月、突如、伯耆米子6万石へ移封が言い渡される。関ヶ原の恩賞ということになっているが時が経ち過ぎており、一説には長良川の洪水を防ぐために築いた堤が、隣の加納藩・奥平信昌のより高かったために彼の反感を買い、その妻である家康の娘・亀姫が家康に頼み、移封させられたとも言われている。

【大洲へ】1614年には江戸城の掘の修理を命じられたので、江戸に赴き作業をしている最中に大坂冬の陣が勃発。作業を中断して大坂へ向かい、天満口を攻略し中之島と兼任して担当している。和議が成立したので一旦、米子に帰るが、翌年に夏の陣が始まると、再び大坂へ出陣。加藤貞泰軍は神崎口に布陣し、首級を二つほど獲っている。
 1617年7月20日、貞泰は大坂の陣の戦功で伊予大洲6万石へ移封された(石高は同じだが瀬戸内海方面への移動なので栄転になる)。この時、貞泰は大津を大洲と改名している。1623年5月22日、江戸で死亡。大洲の竜護山曹渓院に葬られた。

【貞泰の性格】貞泰は、詩・和可・連歌をよくし、八条流馬術の秘伝も受けている文武両道の武将で、民政にも心を使い、美濃に移封となった時に、5年間の免税などをしている。また重臣達を大切にし、彼らに『賓客の如し』と言われるほど丁寧な接し方をしたと言われている。

光泰の供養塔
鳥取県米子市の港山公園にある貞泰が父・光泰のために建てた供養塔

管理人・・・貞泰は石田三成と因縁があります。父・光泰は朝鮮出兵で石田三成と意見が対立し、三成との和解の宴が催されたが、そこで毒殺され、家督を継ぐ時も、三成が秀吉に「貞泰は幼少だから甲斐を治めるのは無理です」と進言したので、甲斐24万石を召し上げられ、改めて美濃黒野4万石を与えられたという話があります。しかも関ヶ原の戦いでは立場上、無理やり西軍にさせれてしまいますし。とにかく三成とのからみが多いです。
 しかし、光泰が毒殺されたっていうのはどうでしょうか。いくらなんでも私情で毒殺まではしないでしょうし、甲斐を召し上げられたのも三成と仲が悪かったためとも言われていますが、これも疑問です。三成の人望が薄かったため、そんな噂が一人歩きしたんじゃないかと思います。

 関ヶ原の戦いで貞泰が自分の子と偽って三成に差し出した家臣の娘ですが、彼女には後日談があります。西軍が関ヶ原で負けて城内が混乱し、娘に危険が迫った時、つづらに入れて城外に投げ出したのですが、石垣に当たってしまい足が不自由になってしまったそうです。以上、大洲藩の礎を築いた加藤貞泰さんでした。

参考文献:米子城主 加藤貞泰とその家臣団(T・U)・戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜

UPDATE 2002年1月28日
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