南部利直

(なんぶとしなお)

生没年:1576〜1632年/ 身分:陸奥盛岡10万石の大名/ 官位(通称、号):信濃守

南部家の女性達の墓
東京都港区芝公園3−5−14の金地院にある南部家の女性達の墓

【南部家の嫡男】南部信直の長男。幼名・彦九郎。最初、晴直と名乗ったが、小田原征伐で父と共に参陣した際に前田利家の偏諱を受けて利直と改めた。
 1591年に家臣の九戸政実が反乱を起こした際、信直の命令で聚楽第に行き豊臣秀吉に謁見し助力を願っている。1595年に信濃守に任ぜられる。1599年に信直が死亡すると家督を継ぎ、京都で豊臣秀頼に謁見した。

【苦しい状況】1600年の会津征伐では最上義光支援のために出羽山形まで出陣したが、伊達政宗の策略で領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こり帰国し、翌年の春に鎮圧する。1602年、領内の産金増加で財政に恵まれ、その力で盛岡の本格的な街造りに着手した。
 大坂の陣が起こると5000の兵を率いて平野口を担当し徳川秀忠の後詰となる。この大坂の陣では家臣の一部が大坂に入城したため非常に苦しい立場となったが、弁明に務め疑惑を晴らした。1632年8月18日死亡。遺体は当初、三戸の三光庵に葬られたが後に盛岡の東禅寺に移された。

南部家墓所
高野山奥の院にある南部家墓所

管理人・・・利直が居城を三戸から盛岡に移した時期がいろいろ説があっていつなのかよく分かりません。大坂の陣のちょっと前に南部領の薫陸(琥珀に似ている石で粉末にして香料として使う。松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。岩手県久慈市で取れる。)が良いらしいって秀忠が言ってたという噂を聞いて陣の最中に蓄えていたものを献上したそうです。
 以上、難しい時期を乗り切り盛岡の基礎を築いた南部利直さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年9月8日
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