伊東長実
(いとうながつぐ)
生没年:1560〜1629年/ 身分:備中川辺1万石の大名/ 官位(通称、号):丹後守

長次が奮戦した静岡県三島市山中新田にある山中城
【黄母衣衆】長次とも。伊東長久の長男。1573年頃に豊臣秀吉に仕え、1576年に大母衣衆となり、播磨の三木での戦いで功があり、織田信長から脇差と熨斗附を賜った。のちに黄母衣衆となる。1590年の小田原征伐で山中城へ一番乗りを果たすという功があり備中川辺1万石を与えられた。朝鮮出兵では名護屋城に駐屯し渡海は免れる。
【七手組】関ヶ原の戦いで石田三成が挙兵すると6月16日にいち早く徳川家康に知らせている。大坂の陣では七手組の一人として、鴫野の戦い・天王寺・岡山での最終決戦で活躍した。
大坂城が落ちると高野山に逃れ、そこで豊臣秀頼の死を知り自害しようとしたが、家康に関ヶ原の戦いでの内報の功を認められ出仕を命じられた。長次は二君に仕えずと断ったが、家臣の説得で備中川辺1万石の大名に復帰する。晩年に剃髪し宗徳と号し、1629年2月17日に死亡した。武蔵の高林寺に葬られる。
管理人・・・家康は関ヶ原の戦いで内報してくれたのをよっぽど感謝していたんでしょうね。ちなみに長実は大坂冬の陣直前に豊臣家を見限り高野山に逃れて、領土を安堵されたとの説もあります。こちらの方が現実味がありますね。
参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・三百藩藩主人名事典・戦国大名諸家譜・図説 徳川将軍家・大名の墓
UPDATE 2002年9月2日
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