堀主水
生没年:1584〜1641年/ 身分:加藤家の家臣/ 官位(通称、号):主水

【奮戦】多賀井家に生まれた。多賀井家は和泉淡輪の土豪で織田信長に従い紀伊の根来雑賀衆と戦うなどしている。主水は成長してから加藤嘉明に仕え、大坂の陣で敵と組み合いながら堀に落ちたが討ち取ったので堀という姓と軍事の采配が与えられた。
【軋轢】嘉明から非常に重く用いられ会津に移ってからは3千石を与えられる。息子の明成の代になっても家老として国政に関わった。しかし度々主君と意見が合わず、次第に不仲になっていく。ある日主水の従者と他の家臣の従者が争ったときに主水の従者が正しいにも関わらず、明成はそれを主水の従者が悪いとした。そこで主水が再度の裁断を求めると明成は怒って彼を謹慎処分にする。

【お家騒動】しかし主水はそれを無視して登城して明成を罵りさらに怒りを買ったため、一族や家臣とともに会津若松城に鉄砲を放って出奔し橋を焼き関所を破って江戸に向かった。明成が追手を差し向けたため、主水は妻子を鎌倉の東慶寺に預け自身は高野山に逃げ、紀州徳川家に助けを求める。
その後、江戸に行き幕府に明成を訴え出て、将軍の徳川家光自らが裁決を下した。判決は『主水に理があるが家臣は主君に従うもの』というもので、幕府は明成に主水ら3人のの身柄を引き渡す。
1641年、主水は三日三晩ゆさぶられて眠れぬようするという拷問の後、処刑された。しかしここまでの騒ぎを起こした明成もただでは済まず会津40万石から石見山田1万石に大減封された。
管理人・・・主水の奥さん(名は樹林と伝わっている)も殺されたことになっていますが、生存説があって田島の徳昌寺にお墓があるそうです。しかしたった二人の喧嘩が地位が高い人同士だとここまでの騒動に発展するんですね。
UPDATE 2004年1月21日
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