加藤明成

(かとうあきなり)

生没年:1592〜1661年/ 身分:伊予松山20万石の大名の子/ 官位(通称、号):式部少輔

【賤ケ岳七本槍の子】父は賤ケ岳七本槍の一人加藤嘉明。幼名・孫次郎。大坂冬の陣では江戸に留守を強要された父に代わって加藤軍を率いて出陣し天満橋方面で戦った。1631年に嘉明が死亡すると会津40万石を継ぐ。

【40万石を賭けて】会津若松城の築城で重臣の堀主水と対立を深め、主水はついに一族郎党300人を引き連れて城に向かって発砲して出て行ってしまった。これには明成が大激怒し「たとえ40万石を失っても検索して厳刑に処する!」と言い、家臣達を各地に送り、高野山にまで押しかけて捕らえようとした。

大田市川合吉永
石見に減封された加藤家が陣屋を構えた大田市川合吉永

【結局、、、】そのため主水は幕府に訴え出たが徳川家光の『家臣は主君に従うもの』という判決で敗訴し明成に引き渡され拷問の末に殺される。しかも明成は主水が妻子を預けていた縁切り寺の東慶寺にまで押しかけ殺させた。
 その後、病気のため会津40万石を返上し、息子の明友に石見安濃郡山田(現・島根県大田市)に1万石が与えられた。明成はそこで1661年1月21日死亡した。墓は京都市東山の東大谷墓地にある。

管理人・・・決して無能な人ではなかったのですがカッとなる性格だったのか、どうしても堀主水が許せなかったのか最後は悲惨な結果で終わっています。そのせいで40万石を失ったことだけが有名になり、まるで駄目大名の一人みたいに思われています(返上したってことになっていますが、実質は減封だったようです)。どんなにいいことをたくさん行っても世間の人の印象に残るのはたった一つの悪いことだけ・・・という例ですね。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2004年1月18日
Copyright (C) 2004 Tikugonokami.