和久宗是

(わくそうぜ)

生没年:1535〜1615年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):又兵衛

和久一族の墓と碑
宮城県仙台市若林区荒町35の仏眼寺にある和久一族の墓と碑

 三好家・足利家・織田家に仕え、その後、豊臣秀吉の祐筆となる。1590年3月の小田原征伐で豊臣家の使者となり伊達政宗に出陣するように促した。隠居すると仙台に行き伊達家に仕え黒川郡大谷に住む。
 大坂冬の陣が起こると政宗に「豊臣家のために死にたい」と願い出て許され大坂城に入ったが和議となった。1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で「甲冑を着ていたら年寄りだと侮って近寄らないだろう」と白綾(白地の綾織物)を被って徳川軍に突入して戦死した。享年81歳。

管理人・・・大坂の陣の登場人物の中では割と知られている方だと思います。ちなみに宗是の最期は『斉藤実盛(平安末期の武将。平宗盛に仕え、1183年に平維盛が北陸に源義仲を攻めたときこれに従い、加賀篠原で討死した。謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などにとりあげられている)の遺風あり』と賞賛されたそうです。

参考文献:仙台人名大事典・伊達政宗のすべて・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2003年10月10日
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