斎藤永門

(さいとうながかど)

生没年:?〜1635年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):外記

【失敗】斉藤道厚の次男。斉藤家は伊達家譜代の家で信夫郡小手森邑御世田を領地とした。兄が1585年の小手森の戦いで戦死したので永門が跡を継いだ。伊達政宗が米沢にまだいた頃、無禄だったが、仙台に移った時に給主組頭になって微禄を与えられる。
 その頃、若生源兵衛という者が罪があって黒川郡富谷邑に隠れたので、永門は主命を受けこれを捕らえて彼の所持品を納めたが、皮籠(かわご。皮でまわりを張り包んだ箱。後には、紙張りの箱や竹で編んだ行李(こうり)の類をもいう)だけ納められることができなかった。その中には官器があったため、政宗の機嫌を損ない禄を失う。

福井市
永門が潜入した越前にある福井市

【土地に名を残す】しかしその後、蟹田(蟹)四郎兵衛という者が政宗が西に向かう途中で茶道の者を殺して政宗の茶器を奪って逃げたため、これを聞いた永門は四郎兵衛を迎え撃ってその首を献上した。この際「賊を討ったので前の過失を許す」と政宗が罪を許して160石を与える。大坂の陣では成田町の足軽を率いて功があり兜を賜った。
 元和年間に松平忠直に謀反の動きがあるという噂が立つと、政宗は永門を越前にやって状況を調べさせた。この時、偶然に伊達家から逃げ出した下郡山清八郎が松平家で鷹匠をやっているのを知り政宗の命でこれを捕らえて連行する。政宗は非常に喜んで望みを聞いたが、永門は「財産ではなくて自分の住んでいる所に名が残ればいいです」と答えた。これが仙台市の外記町である(現在は青葉区本町に変更されている)。その後、順調に出世し500石を与えられ1635年3月13日に死亡した。仙台の光寿寺に葬られた。

管理人・・・官器というのが何なのか分かりませんでした。

参考文献:仙台人名大事典・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2003年7月7日
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