伊達成実

(だてしげざね)

生没年:1568〜1646年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):安房守

【伊達家の忠臣】伊達稙宗の三男・実元の息子。母は伊達晴宗の娘。1585年の人取橋の戦いで成実は一隊を率いて敵の間に入って功があり、1586年には二本松城を賜って3万8千石の領主となった。その後も郡山の戦い、摺上原の戦い、須賀川の戦いでも功がある。1590年の葛西大崎一揆では蒲生氏郷の元に行き人質となった。1591年に角田城に移る。朝鮮出兵にも従った。

高野山から見た山々
成実が出奔した高野山から見た山々

【高野山】しかし1592年に朝鮮から戻った成実は突然高野山に出奔する。理由は戦功が他の武将に勝っていたのにもかかわらず官位や禄が下だったためと言われている。留守政景が人をやって説得したが受け入れらず、伊達政宗の命令で屋代景頼が角田城討伐に向かい、成実の家臣30人余りが討ち死にした。
 1600年に上杉景勝が5万石で招いたがこれに応じなかった。同じ年の秋、石川昭光・片倉景綱・留守政景が政宗の命令で説得したためやっと伊達家に戻った。

【戦国の生き残り】白石の役では昭光の軍に参加し、1603年に亘理城を賜った。大坂の陣にも従軍。1638年に江戸に行き徳川家光に奥羽での戦いのことを語りその武勇を称され時服(将軍が衣替えの時期に臣下にあげる服)20などを賜ったという。1643年に2万石となった。1646年6月4日死亡。法名・久山天昌雄山寺殿。亘理町の大雄寺に葬られた。辞世の句は『昔より稀なる年にここのつの餘るも夢の中にそありける』。

管理人・・・成実の木像が菩提寺の大雄寺にあるそうです。

参考文献:伊達政宗―独眼竜の野望と咆哮・伊達政宗のすべて・仙台人名大事典・戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2003年7月25日
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