伊達秀宗

(だてひでむね)

生没年:1591〜1658年/ 身分:伊達政宗の庶子/ 官位(通称、号):侍従

伊達秀宗の墓
愛媛県宇和島市野川甲1157の等覚寺にある秀宗の墓

【独眼竜の息子】伊達政宗の庶長子。母は飯坂宗康の娘。1596年に豊臣秀吉の猶子(相続を目的としないで、仮に結ぶ親子関係の子のこと)となり秀吉の諱を与えられ秀宗と名乗った。関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家の屋敷で人質となる。1609年に井伊直政の娘と婚姻。
 大坂冬の陣では政宗と共に出陣し、1614年12月28日に政宗の功などにより伊予宇和島10万石を与えられた(秀宗には正室から生まれた弟・忠宗がいたため跡継ぎにはなれなかった)。夏の陣では在国する。

和霊神社
愛媛県宇和島市和霊町1451にある和霊神社

【お金がない】宇和島伊達家は成立時から財政難でこれが事件を招く。秀宗の宇和島移封の際に政宗から6万両から借りたため、その返済に毎年3万石を隠居料として差し出して財政を圧迫されていた(これは18年間続いた)。しかも1620年に大坂城修築を命じられ山家(やんべ)清兵衛公頼と桜田玄蕃が派遣されたが、彼らには10貫目を与えられ、あとは京都で金策しろと言うだけだった。
 そこで清兵衛は家臣の禄を半減して乗り切ろうとしたが玄蕃達が秀宗に中傷し上意討ちされ死亡した。その後、玄蕃の一味や秀宗の跡継ぎが亡くなるなどしたため清兵衛の怨霊の噂が広まり、秀宗は1654年に彼の無実を認めて和霊神社を建てた。
 1658年6月8日死亡。法名・等覚寺殿義山常信大居士。竜泉寺(現・等覚寺)に葬られた。

管理人・・・上の紹介文だけ見るとなんかあんまり政治力なかったような感じですが、領内の整備をするなど、やることはきちんとやっています。ただ入用でどうしても金がなかったんでしょうね・・・。ちなみに地名を板島から宇和島に変えています。
 ふと疑問に思ったんですけど清兵衛を殺した後に伊達家はお金をどうやって調達したんでしょうか?

参考文献三百藩藩主人名事典・仙台人名大事典・戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略、ほか

UPDATE 2003年7月28日
Copyright (C) 2003 Tikugonokami.