青山忠俊

(あおやまただとし)

生没年:1578〜1643年/ 身分:下総国内で3万5千石の大名/ 官位(通称、号):伯耆守

【総奉行の息子】関東総奉行の青山忠成の次男として遠江浜松に生まれる。幼少の頃から徳川秀忠に仕え、1603年に常陸信太郡江戸崎に5千石を与えられた。1610年に書院番頭に命じられ、1611年に5千石を加増され下野都賀郡鹿沼に移封される。1613年に父の忠成が亡くなったので遺領と家督を継ぎ合計3万5千石の大名となった。

岩槻城址碑
忠俊が城主だった岩槻城の碑

【勘気を被る】大坂夏の陣に従軍し天王寺・岡山での最終決戦では水野忠清と先陣争いをしそれに勝利し軍功を賞される。陣後、徳川家光の傳役を酒井忠世土井利勝と共に命じられた。1616年に老職に任じられた。1620年に大坂の陣の戦功で1万石を加増され武蔵岩槻4万5千石に移封される。
 1623年に『ゆえありて御気色こうむりて(『徳川実紀』)』という不明瞭な理由で老職を解任され2万石に減封されて上総大多喜城に移された。さらに1625年にはそれも取り上げられ遠江小林に蟄居させられる。1643年死亡。

管理人・・・忠俊は家光に対して厳しく教育し、言うことを聞かない時には「もし聞き入れられないのなら私の首を刎ねた後で好きにしてください」と諌めたり、家光が化粧をしているのを見た時は「天下の主にあるまじき所業」と言い、鏡を庭の石に叩き付けて割っています。
 1623年に突然処分された理由ですが、家光を公衆の面前で叱ったせいだとも、徳川秀忠や酒井忠利との確執があったためとも言われています。その処分についてあとで家光が後悔して江戸に呼び戻そうとしましたが、忠俊は「私が戻ったなら主君の過ちを認めることになるのでよくありません」と断っています。

参考文献三百藩藩主人名事典江戸幕閣人物100話、ほか

UPDATE 2004年7月5日
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