片岡民部

(かたおかみんべ)

生没年:1586〜1659年/ 身分:長宗我部家の家臣/ 官位(通称、号):民部

金比羅山
民部が移り住んだ香川県琴平町にある金比羅山

 名前は不明。片岡光政の息子。祖父の片岡光綱は土佐高岡郡の土豪だったが、長宗我部元親の土佐統一の過程で臣従し、1585年の四国征伐の際、伊予金子城で小早川隆景軍と戦って戦死した人物。父の光政も翌年の戸次川の戦いで長宗我部信親に従って戦死した。民部も長宗我部家に仕えていたが関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が改易されたため、伊予松山に落ち延びる。
 その後、金毘羅に行き金光院宥盛の弟子となって、大峰山などで修行を行なった。この頃に宥醒(ゆうせい、『醒』の字は正確には『日』偏に星)と名乗る。大坂冬の陣が起こると還俗して片岡民部と名を改め旧主・盛親の元に馳せ参じた。しかし大坂が落城したため土佐に逃れ祈祷して周り、やがて山内忠義の信頼も得る。1631年に金毘羅に戻り、多門院を号した。1659年死亡。

管理人・・・金毘羅に戻った民部は広大な屋敷をもらい優遇されています。また山内家や土佐藩領民の吉凶を占って繁栄を祈祷したそうです。

参考文献高知県人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2006年8月26日
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