浅井井頼

(あざいいより)

生没年:1570年頃〜1661年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):周防守

浅井長政の像
春日井市の間内駅前にある父・浅井長政の像

【浅井家の生き残り】名前は長房とも。浅井長政の三男(次男とも)。賤ケ岳の戦いで豊臣軍に参加し、その後に豊臣秀長・秀保に仕えて600石を与えられた。1594年に秀保が死亡すると、その後に大和に入ってきた増田長盛に3000石で仕える。関ヶ原の戦いで生駒親正に従って西軍につく。
 戦後は東軍に味方した息子の生駒一正に仕えていたが、1614年に大坂冬の陣が起こると大坂城に入った。冬の陣では二の丸の東を守備、夏の陣では天王寺・岡山での最終決戦で天王寺口に陣をしいた。

玄要寺
井頼が葬られた香川県丸亀市南条町34にある玄要寺

【逃げ延びる】大坂落城の時に豊臣秀頼淀殿と一緒に山里曲輪に篭ったが、彼女の依頼で姉の常高院ら4人で徳川家康への使いとして向い、秀頼一行の助命を願い出た。しかしすでに山里曲輪は火がつき秀頼一行は自害して果ててしまっていた。
 そのため4人は散り散りになってしまったので、井頼は落ち延び京都に潜伏後、常高院を頼って若狭小浜の京極家に行き保護される。京極家が出雲松江に移封されると500石を与えられた。この頃に出家して作庵と号したという。その後、京極家の播磨竜野、讃岐丸亀移封にも従い、1661年5月16日死亡。京極家の菩提寺である香川県丸亀市南条町の玄要寺に葬られた。

管理人・・・謎の多い人物です。浅井長政の息子は全員殺されたはずなのに、なぜに生き残っているんでしょうか? どうやって助かったんでしょうか? 賤ケ岳の戦いに参加するまでなにしてたんでしょうか?
 本当だったら淀殿と兄弟なんで、大坂城内で大事にされたことと思います。なんでも真田十勇士の根津甚八のモデルらしいです。夏の陣に討死したという説もあります。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・戦国女系譜・大日本史料(第十二編15〜20)日本の戦史 大坂の役ほか

UPDATE 2005年3月1日
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