上田重安

(うえだしげやす)

生没年:1563〜1650年/ 身分:浅野家の家臣/ 官位(通称、号):宗箇・主水正

大溝城
宗箇が代官を務めた滋賀県高島市勝野にある大溝城

【出世】丹羽長秀の家臣・上田重元の息子。尾張星崎で生まれる。10歳の時に父が死亡したため、それからは祖父に育てられ、成長すると丹羽家に仕えた。本能寺の変が起きた時に明智光秀と心を通じていると疑われた津田信澄(光秀の婿)の首を獲った。丹羽家が近江国内に領土を与えられた時に高島郡の代官として大溝城に入城する。1583年の賤ケ岳の戦いの後に丹羽家が越前に移封されると1万石を与えられた。

【直参】1585年に丹羽家を長秀の息子・長重が跡を継いだが豊臣秀吉に難癖を付けられ若狭に減封されてしまう。しかし重安は豊臣家の直参となり引き続き越前国内で1万石を与えられた。1586年に方広寺の大仏殿の造営監督を務める。その後、九州征伐・小田原征伐で功があり、それを賞され杉原家次の娘(高台院の従姉妹)を娶った。1594年に従五位主水正と豊臣姓を与えられる。

縮景園
重安が手がけた広島市中区上幟町2-11にある縮景園

【浅野家へ】関ヶ原の戦いが起こると西軍に属して丹羽長重の加賀小松城に入ったが、本戦で石田三成が敗北したため摂津兵庫に逃げ剃髪し宗箇と号した。これを聞いた蜂須賀家政に呼ばれて庇護を受ける。1602年に浅野幸長に呼ばれて1万石を与えられた。この時に徳川家康から許されて還俗し再び主水正を名乗る。

【団右衛門との戦い】大坂冬の陣後、戦功に対しての褒美に不満があり奈良に移り住んだ。しかし当主・長晟に頼まれ浅野家に戻った。夏の陣では樫井の戦いで奮戦し、塙直之を討ち取っている(異説あり)。
 1619年に浅野家が広島に移封されると領土の要所・安芸佐伯郡小方1万2千石を与えられた(後1万7千石に加増)。1650年5月1日死亡。享年88歳。墓は広島県佐伯郡大野町串山にある。子孫は代々小方を領し重臣として栄えた。

管理人・・・有名人の宗箇さんです。武人として有名な彼ですが、文化人としても有名で千利休に茶の湯を学んで、彼が亡くなると古田織部の弟子として茶道を極め、宗箇流という武家風の流派を確立しています。そして名品も数多く残しており、樫井の戦いの最中に作った茶杓『敵がくれ』、息子・重政に跡を継がせ、佐伯郡浅原村(現・廿日市市)に隠居して茶の湯三昧の生活を送っていた時に作った茶碗『さても』などの代表作があります。
 また作庭師としても手腕を発揮して徳島城下の千秋閣庭園・紀伊の粉河寺庭園・広島城下の縮景園などを手がけています。以上、文武両道の名将とはこの人のためにあるような言葉って感じの上田宗箇さんでした。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2003年2月4日
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