浅野忠吉

(あさのただよし)

生没年:1547〜1621年/ 身分:浅野家の家臣/ 官位(通称、号):右近大夫

清洲城
忠吉が生まれた清洲にある清洲城

【出奔】浅野長忠の子。浅野長政の従兄弟にあたる。1547年に尾張清洲で生まれ織田信長に仕えたが、信長の甥と口論の末斬り捨てたので東国に去った(後に美濃に戻ってきている)。

【帰参】その後、浅野長政が近江大津城主になるとその家臣となった。1587年に浅野家が若狭に移封されるとそれに従い佐柿城で1万石を与えられた。1590年の小田原征伐では浅野軍の先鋒を務め功がある。
 1594年に浅野家が甲斐に移封されると2万石を与えられた。甲斐に在国していた時に久遠寺を公金と自費で再建している。1600年の関ヶ原の戦いでは浅野軍の瑞竜寺城攻めで先鋒を務め功があった。

【長晟を支持】戦後、浅野家が紀伊に移封されると新宮2万8千石を与えられ、牟婁郡9万石の郡代となった。1613年に浅野家の当主・幸長が亡くなると息子がいなかったので、忠吉は彼の遺言を守り長政の次男・長晟を支持したが、同僚の浅野良重が三男・長重を支持したためお家騒動が起きる。最終的には幕府に裁決をお願いし、そこで長政の妻が長晟を支持したので問題は解決した。

三原城
広島県三原市にある忠吉の居城・三原城

【大坂の陣での奮戦】大坂冬の陣で長晟に従って大坂へ出陣したが、その隙をついて熊野地方の土豪らが一揆を起こし忠吉の居城・新宮城に迫った。しかし彼の家臣・戸田勝直の活躍で撃退している(紀州一揆)。夏の陣では樫井の戦いで活躍した。

【浅野家を支える】1619年、浅野家が安芸広島に移封される時に最後まで紀伊に残って残務処理を行った。広島に移ると備後三原城3万石を与えられ筆頭家老となった。1621年5月7日、広島城内の屋敷で死亡。享年75歳。妙源寺に葬られる。法名・大通院殿南叔道栄大居士。子孫は代々家老と務めたという。

管理人・・・信長の甥を切るとは大胆な、、、。勇猛というか命知らずというか。広島県三原市には忠吉の家が残した記録があり、そこに紀州一揆のことなどが詳細に書かれているそうです。新宮市にある書物はそれらを参考に書かれたものが結構あります。

参考文献三百藩家臣人名事典・和歌山県史・大坂の役戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2003年1月30日
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