本山茂辰(生没年不詳)
官位・通称:式部少輔
清茂の子。妻は長宗我部国親の娘(元親の姉)。国親の娘との婚姻は一条房家が土佐での戦乱を憂えて仲介したといわれているが、両家の思惑が一致しただけで房家の意思は関係なかったとの説もある。
1555年、父・清茂の跡を継いで土佐朝倉城主となると、仁淀川を渡河して一条兼定の領土に侵攻し兼定と対立。さらに領地を接した国親との関係も悪化し東西から挟撃される形となる。1560年、浦戸港をめぐる戦いで国親に大敗し、国親の跡を継いだ元親によって次々と支城を奪われる。1563年、遂に朝倉城も支えきれなくなった茂辰は本貫である土佐本山城に撤退した。
1563〜1564年の間に病死したと考えられている。
高知県長岡郡本山町本山にある土佐本山城
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