特別に軍事費を免除します(防府天満宮文書の羽仁栄保書状)

・原文
就今度被召上諸寺社御半済之儀、被成御究候間、以書立申上候、然者御坊并御拘所半済之儀、彼上使衆被相除之趣言上候処ニ、余之寺社ニ相易儀候条、無余儀被思召之通、以児市(児玉元賀)・内与三右(内藤元栄)、被仰出候之条、御半済之書立ニ奉行衆御除候之間、可御心安候、自然御尋之時者能々可被仰理候、恐々謹言、
天正八年九月廿日 羽仁次郎右衛門尉栄保
大専坊参御同宿中

・読み下し
今度召し上げられ諸寺社御半済の儀につき、御究めなされ候間、書立をもって申し上げ候。しからば御坊領ならびに御拘所半済の儀、かの上使衆相除きの趣言上申し候ところに、余りの寺社に相易き儀候条、余儀なく思召されの通り、児玉元賀と内藤元栄が、仰せ出されられ候の条、御半済の書立に奉行衆御除き候の間、御心安きべく候、自然御尋ねの時はよくよく理(ことわり)を仰せられるべく候

・意訳
この度、徴収された各寺社の半済(※1)についてですが、(毛利家が)確認し正式に決定しましたので、書立で申し上げます。それで大専坊の領地と拘所の半済のことですが、例の毛利家からの使者たちが「半済から除外してください」と毛利家に上申したところ、毛利家は「他の寺社に簡単に半済するように思われるのではないか。しかし致し方ない」と児玉元賀と内藤元栄を通じて仰いました。ですので半済の書立から奉行衆が除いておくので安心してください。万が一、毛利家から尋ねられた時は詳しく道理を仰るように。

※1 軍費を調達するために特定の寺社本所領などの年貢の半分を一年をかぎって武士に与えた制度

・感想
 織田・毛利戦争が終盤に差し掛かり、毛利家が劣勢に立たされており軍事費が必要だった頃です。これまでの記事でも載せましたが、大専坊(と防府天満宮)は祈祷のためや領地が管理できていないなどの理由で何度か免除されてきました。今回も似たような理由だったのでしょう。
 「余りの寺社に相易き儀候条、余儀なく思召されの通り」がこの文書の肝だと思われるのですが、上手く訳せませんでした。意味が逆で「他の寺社のように簡単に半済を課せられてしまうだろう」という意味かもしれません。

(防府天満宮)
防府天満宮


毛利元就様の御宿坊なので援助して下さい!(防府天満宮文書の慶雄手日記)

・原文
手日記
一 当坊(防府天満宮の別当寺・大専坊)造立事、雖難叶候、種々致短息、先以客殿一宇造立仕候、彼入目米銭百五十余に候、悉以他借遂其節候事、
一 右客殿造作立具畳敷居板等、一円無御座候事、
一 新敷可有造立在所、庫裏・大門・小門・御後架所以下事、
一 当坊造営事、従往古以御公物被仰付候、証文両通在之事、
一 当坊領古給新給歴々致不知行候、銘々以注文申上候事、
以上
右当坊之儀、御祈薦社役執沙汰専一候、殊上様(毛利元就)為御宿坊之間、先以客殿儀入目百五拾余、以他借遂其節候、彼返弁御足付井向後修造等之事、能々被成御下知、一宇致成就候之様に御披露奉仰候、恐悼謹言
元亀弐年正月廿五日 大専坊慶雄
国司右京亮(元武)殿
大庭加賀守(賢兼)殿

裏書
「此五ケ条事、具帯証文遂披露吃、殊当坊建立之段尤御褒美不斜候条、或便宜地、或以浮米銭茂―廉可被成御助力之旨被仰出所也、仍裏書如件、
元亀弐年二月九日 大庭加賀守(賢兼)
         国司飛騨守(元相)」

・読み下し
一、当坊造立の事、叶い難しといえども候、種々短息致し、まずもって客殿一宇を造立仕り候、かの入目米銭百五十余に候、悉く他借をもってその節を遂ぐ候事、
一、右、客殿造作の立具(※1)、畳敷居、板等、一円御座なく候事、
一、新敷きに造立あるべき在所は、庫裏、大門、小門、御後架所(※2)以下の事、
一、当坊造営の事、往古より御公物をもって仰せ付けられ候、証文両通これあるの事。
一、当坊領、古給、新給、歴々知行致さず候、銘々をもって注文申し上げ候事、
右、当坊の儀、御祈薦、社役、沙汰を執り専ー候。殊に上様(毛利元就)御宿坊の間のため、まずもって客殿の儀、入目百五拾余、他借をもってその節を遂げ候、かの返弁御足付ならびに向後の修造等の事、よくよく御下知をなされ、一宇成就致し候の様に御披露奉り仰せ候、恐皇謹言、
元亀二年正月廿五日 大専坊慶雄
国司右京亮元武殿
大庭加賀守賢兼殿

裏書
「この五ヶ条の事、つぶさに帯びた証文披露を遂げ訖んぬ、殊に当坊建立の段尤も御褒美斜めからず候条、或いは便宜の地、或いは浮米銭をもっても―廉御助力なられるべくの旨仰せ出られ所也、仍って裏書件の如し、
元亀弐年二月九日 大庭加賀守(賢兼)
         国司飛騨守(元相)」

※1 室内の家具や調度品
※2 後架(こうか)は僧堂の後にかけわたした洗面所。また、そばに便所があるところから、便所。古くは小便所をさした

・意訳
一 当寺(大専坊)を造立することは難しい状況ですが、いろいろと尽力して先ずは客殿を建てました。その費用は米銭で百五十余りになりましたが、全て他所から借金をしました。
一 その客殿を建てるための建具、畳敷き、敷居、板などは、まだ全てありません。
一 他に新造する必要があるのは、庫裏、大門、小門、便所などです。
一 当寺の造営に関しては、昔から幕府の費用によって命じられてきました。その証拠の文書が二通ございます。
一 当寺の寺領は、支配の新旧に関わらず知行ができていません。それぞれが注文を申し上げます。
当寺は祈祷や神社の役目を第一に務めています。特に毛利元就様の御宿にもなっていますので、まずは客殿の費用の百五十余りを他所から借りて建てました。費用の援助と今後の修造などのことは、よくよく命令されて客殿が内装も含めて完成するために、毛利輝元様と元就様に取り計らいください。恐皇謹言、
裏書
「この五ヶ条のことですが、詳細な証文と一緒に(毛利元就、輝元に)披露しました。特に建立のことはもっとものことだと非常に褒められたため、適した土地か備蓄してある米と銭をもって相応の援助をすると仰った」

・感想
 これだけ有名で元就が泊まるほどの寺でも、まともに知行ができずに客殿の建て替え(だと思う)をするのに借金をしないといけないほど困窮していたとは・・・。当時の寺社や毛利家の統治の難しさの一端を感じました。
 五条目の「銘々以注文申上候事」が上手く意訳できませんでした。各々が自由に注文を申し上げるとは思えないので、五ヶ条をもって注文を申し上げるという意味でしょうか。

(防府天満宮)
防府天満宮


足利義昭様と毛利家のために軍費を出してほしいですが免除します(防府天満宮文書の忠朝外三名連署書状)

・原文
就今度(欠字)公方様(足利義昭)被成御下向儀、防長両国諸寺社御半済之儀、雖被仰懸候、当社大専坊之儀者、別而之御祈念所与申、従前々半済等無之証文明白候、殊当時依御不知行、少分限之御理具承分候、自余相替儀候之間、御半済相除申候、恐悼謹言、
天正七年十月晦日
舜雅
忠重
元綱
忠朝他行
大専坊 御同宿人々御中 長家

・読み下し
今度公方様御下向なられの儀について、防長両国諸寺社御半済の儀、仰せ懸けられといえども候、当社大専坊の儀は、別してこれを御祈念申し与えるところ、前々より半済等これなく証文明白候、ことに当時より御不知行、少分限の御理つぶさに承分候、自余相替え候の間、御半済相除き申し候、恐悼謹言

・意訳
この度、足利義昭様が備後鞆の浦に下向されたため、防長両国の全ての寺社に対し半済(※1)を命じられました。ですが防府天満宮の別当寺・大専坊については特別に(義昭様と毛利家の武運の)祈念をする場所であり、昔からの慣例に従って半済等の税金がかけられないことは証文により明白です。ことに最近は領地の知行ができず収入が少ないという事情は詳細に承知しております。他の寺社とは事情が違うため、替地が用意できるまでは半済の対象から除きます。恐悼謹言

※1 幕府や大名などが軍費を調達するために特定の寺社本所領、国衙領などの年貢の半分を一年をかぎって武士に与えた制度

・感想
 天正4(1576)年、織田信長と対立していた足利義昭が毛利領内の鞆の浦に来て毛利・織田の戦争が始まって3年目の文書です。この月の前年、毛利家は宇喜多直家と南条元続に裏切られ、山陰・山陽での戦線が大きく後退した時期でした。そこで勢力挽回のため半済を命じて軍事費を調達したのでしょう。
 私は詳しくないですが毛利家も懐事情が厳しく、織田信長と戦争は金銭面でも非常に苦労していたようです。

(広島県福山市鞆町の鞆の浦)
鞆の浦