川を渡るべきか?

 1614年11月6日、加藤明成は600人の軍勢を率いて神埼川の上流に陣を構えた。夜になると明成は加賀山小左衛門に物見を命じた。戻ってきた小左衛門は
「川の向こうには軍勢がいないようです。川を渡って陣を進められるべきです」
 と申し上げた。
 明成の側には佃次郎兵衛と河村権七郎という武功の士がいた。
「今は寒空でしかも夜になっています。兵士が川を渡りましても、凍えてしまうでしょう。その時に敵が襲ってきたら味方は槍の柄も刀の柄も握ることができず、戦いに利はないでしょう。ここで夜明けを待って、早朝に川を渡るのがよろしいかと思います」
 小左衛門の発言を聞いた次郎兵衛が進言すると、皆がこれに賛同した。しかし小左衛門は反論。
「私は武功のない人間で差し出がましいとは思いますが、やはり今夜の内に川を渡った方がいいと思います。この川の上下には陣を構える中四国の軍勢がたくさんいます。もし明日の朝まで待ちますと他の軍勢に先を越され、『敵にも会わず見物しているだけだ』と嘲られて当家の名を汚すことになります。天下の軍勢を味方に持っての戦いなら勝負にこだわるべきではありません。ただ人に先立って戦をすることを考えるべきです。遅れてしまっては無事に国に帰られたとしても当家の立場が危うくなるでしょう」
 その真意は明成の父・嘉明が豊臣家恩顧の武将だったため、警戒され江戸に留め置かれていたからだった。この戦いで徳川家に対しての忠誠を示さないと立場が危うかったのである。
 小左衛門の意見を聞いた権七郎は
「もっともだ」
 と一言だけ発し、次郎兵衛も少し考えた後
「我々の考えが及ばなかった」
 と小左衛門の意見を認めた。そこで加藤軍は川を渡って陣を北中之島に進めている。(『合校雑記・武徳編年集成』)

伊予松山城
愛媛県松山市丸之内1にある加藤家の居城・伊予松山城

管理人・・・この後の文章は「小左衛門は若いけれど、この理を知るは才子なり。次郎兵衛がその意に従って争わないのは善士なりと、時の人これを褒め称える」となっています。

UPDATE 2011年3月5日
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