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それから三木城攻め、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いに参加し、特に賤ケ岳の戦いでは福島正則らとともに『賤ケ岳七本槍』と称される活躍をし5千石を与えられる。
秀吉の死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは先陣として戦い石田三成の陣を破る。その功で10万石を加増され20万石となった嘉明は1603年に松前より松山に城を移し町や港の整備をして現在の松山市の基礎を築いた。 大坂冬の陣が起こると豊臣恩顧の大名として幕府から警戒され江戸への留守が命じられ息子の明成が軍を率いて参加する。夏の陣では参陣が許され徳川秀忠に従軍した。
1631年8月9日、江戸の屋敷で病気のため死亡。高野山に葬られ、会津若松の長福寺にも分骨される。勇将として有名な嘉明だが、茶道も愛した風流人であり、部下の失敗にも寛大な文武両道の名将だったと伝えられている。
会津若松への移封のことですが、これには非常に有名な話があって、朝鮮出兵の際に先陣争いをして不仲になっていた藤堂高虎が「嘉明が要衝の会津を治めるのにふさわしい」と推薦したため、徳川家光が「不仲の相手を推薦するのか」と訪ねました。すると高虎は「公私は別です」と答え、これに感動した嘉明は会津に行く決意をしたそうです。 だけどこれはうがった見方をするとあんまり美談でもなさそうです。なぜなら温暖な松山から寒い会津への移動、会津が40万石だと言っても生産力が悪くそんなに財源が増えるわけでもない、責任は重くなる、などいいことなしだったようでやっぱり高虎は公私混同して嫌がらせをしたんじゃあないのでしょうか? なんて思ってしまいます。 実際のところ徳川家に無理強いされて行かされただけでしょう。その頃は改易の嵐が吹き荒れていたので逆らったらすぐに減封か改易ですから(結局は息子の代で大減封されていますけど・・・)。以上、戦国の世を生き抜いた加藤嘉明さんでした。 参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・戦国大名諸家譜・三百藩藩主人名事典、ほか UPDATE 2004年1月14日Copyright (C) 2004 Tikugogawa. |
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