加藤嘉明

(かとうよしあき)

生没年:1563〜1631年/ 身分:伊予松山20万石の大名/ 官位(通称、号):左馬助

加藤嘉明生誕地の碑
愛知県西尾市上永良町宮東1番地にある加藤嘉明生誕地の碑

【賤ケ岳七本槍】父は加藤(岸)教明。教明の家は三河で徳川家に仕えていたが、三河一向一揆で一揆側に加担したために逃亡し豊臣秀吉に仕えた。嘉明は13歳の時に秀吉の養子・秀勝(織田信長の四男)に仕えたが、1576年の豊臣軍の播磨征伐に秀勝の許可なしで無断で参加し北政所の怒りを買う。しかし秀吉にその勇気を称し300石を与えられた。
 それから三木城攻め、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いに参加し、特に賤ケ岳の戦いでは福島正則らとともに『賤ケ岳七本槍』と称される活躍をし5千石を与えられる。

【要注意人物】その後も豊臣軍の一員として戦い、四国征伐・九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵で水軍として活躍する。それらの功で1598年には伊予松前10万石の大名になった。
 秀吉の死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは先陣として戦い石田三成の陣を破る。その功で10万石を加増され20万石となった嘉明は1603年に松前より松山に城を移し町や港の整備をして現在の松山市の基礎を築いた。
 大坂冬の陣が起こると豊臣恩顧の大名として幕府から警戒され江戸への留守が命じられ息子の明成が軍を率いて参加する。夏の陣では参陣が許され徳川秀忠に従軍した。

高野山奥の院
嘉明が葬られた高野山奥の院

【会津へ】1627年に会津城主の蒲生忠郷が死亡し嫡子がなかったため改易され、嘉明が会津城主の候補に挙がった。嘉明は老齢な上に自分が作り上げ愛着のあった松山から離れたくなかったので、辞退したが許されず結局は会津40万石に移封となる。そこで嘉明は年貢の取立ての徹底、地場産業の改良、金銀山の採掘などに力を入れた。
 1631年9月12日、江戸の屋敷で病気のため死亡。高野山に葬られ、会津若松の長福寺にも分骨される。勇将として有名な嘉明だが、茶道も愛した風流人であり、部下の失敗にも寛大な文武両道の名将だったと伝えられている。

嘉明の像
愛媛県松山市丸之内に建つ嘉明の像

管理人・・・嘉明は陸戦・海戦共に巧みな武将だったようです。
 会津若松への移封のことですが、これには非常に有名な話があって、朝鮮出兵の際に先陣争いをして不仲になっていた藤堂高虎が「嘉明が要衝の会津を治めるのにふさわしい」と推薦したため、徳川家光が「不仲の相手を推薦するのか」と訪ねました。すると高虎は「公私は別です」と答え、これに感動した嘉明は会津に行く決意をしたそうです。
 だけどこれはうがった見方をするとあんまり美談でもなさそうです。なぜなら温暖な松山から寒い会津への移動、会津が40万石だと言っても生産力が悪くそんなに財源が増えるわけでもない、責任は重くなる、などいいことなしだったようでやっぱり高虎は公私混同して嫌がらせをしたんじゃあないのでしょうか? なんて思ってしまいます。
 実際のところ徳川家に無理強いされて行かされただけでしょう。その頃は改易の嵐が吹き荒れていたので逆らったらすぐに減封か改易ですから(結局は息子の代で大減封されていますけど・・・)。以上、戦国の世を生き抜いた加藤嘉明さんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2004年1月14日
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