清韓文英

(せいかんぶんえい)

生没年:1568(?)〜1621年/ 身分:南禅寺の僧/ 官位(通称、号):なし

清韓文英の墓
三重県津市乙部5−14の上宮寺にある清韓文英の墓

 中尾勝重の子。伊勢に生まれる。山城の真如寺、伊勢の安養寺などに住んだ。朝鮮出兵では加藤清正に従って朝鮮半島に渡る。1600年に東福寺に入った。やがて南禅寺の長老となる。豊臣秀頼に頼まれて方広寺大仏殿の鐘銘を草案するが、その一部の『国家安家』『君臣豊楽』が問題となり駿府に呼ばれ詰問された。それがきっかけで大坂の陣が起こる。その後、豊後に住んだ。1621年3月25日死亡。

管理人・・・徳川と豊臣の抗争に振り回された人物の一人です。方広寺鐘銘事件の際、五山の僧(日本、中世の禅宗官寺制度で、最高の寺格を持つ京都五山と鎌倉五山。五岳)は「肥後の田舎者が豊臣家に可愛がられおって」と妬んでいたため、「故意にこのような言葉を使ったのでしょう」と徳川家の後押しをしています。しかし妙心寺の海山だけは清韓の弁護をしたと伝わっています。
 以上、大坂の陣のきっかけとなった人物として有名な清韓文英でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の役・Microsoft bookshelf

UPDATE 2005年8月3日
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