小川好安

(おがわよしやす)

生没年:1583〜1639年/ 身分:真田家の家臣/ 官位(通称、号):二郎右衛門

小川好安の墓
長野市松代町松代1015−1の長国寺にあるにある好安の墓

【放浪】小川新九郎久好の子として長野県上水内郡長沼村に生まれる。諸国を放浪し関ヶ原の戦いでは土井利勝に属して功があり、家臣になるように誘われたがこれを断った。上野沼田に来た時に出浦対馬守の勧めで1607年に真田信之の家臣となる。

【暗殺】1612年に紀伊九度山に使いとして行き、大坂の陣でも和議成立後に真田幸村のもとに使いとして行っている。陣後、馬場主水が真田家を訴えるが敗訴に終わった際に、信之は後顧の憂いを断つために主水の抹殺を思い立つが公然と実行することができなかった(理由は不明だが主水が幕府の密偵だったという噂と関係すると思われる)。そこで好安は信之の意図を察して男山と伊勢神宮参拝のため3年の暇を願い出て真田家を離れて主水を殺した。
 信之はこれを非常に喜び「真田家の続く限りお前の家を断絶することはない」と言ったという。その上に望みはないかと聞いたが好安はそれを断った。後に奉行となる。1639年6月10日死亡。法名・惟海院月山久心居士。長野県長野市松代町松代の長国寺に葬られた。

管理人・・・好安は生涯に28人を殺して、そのうち2人は頼まれて殺したものだそうです。その中の一人が馬場主水です。好安の息子達は長男が200石、次男が200石、三男が210石を各々与えられて家を立てています。

参考文献:更級郡埴科郡人名辞書

UPDATE 2005年5月14日
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