小田辺勝成

(こたべかつなり)

生没年:不詳/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):大学

畠山家墓所
福島県二本松市本町1丁目148の称念寺にある旧主・畠山家墓所

【乗込大学】陸奥二本松の畠山家の家臣で仙道小田辺城を居城としたことから小田辺の姓を名乗った。同僚の石川実光と共に勇名を馳せ、勝成が単騎で敵陣を破ったので『乗込大学』、実光が歩戦でこれを守ったので『不屬(しらます)の弥平』と呼ばれた。畠山家が伊達政宗に滅ぼされた後浪人したが、1598年に片倉景綱を通じて政宗に仕官をお願いして300石で召抱えられ武頭役になる。

【琵琶の旗】1600年の長谷堂城の攻防で留守政景に従軍して最上軍の救援に向かい城に入った。上杉軍の総大将・直江兼続が城に登った勝成と実光の赤と黒の琵琶の旗を見て「琵琶の旗は勇名を馳せる小田辺と石川の二人か。琵琶は音を鳴らすものだ。鳴らすのをすなわち引くという。敵を見て引く勇士と言う意味か」とあざけった。しかし勝成は「琵琶は筐(かたみ=竹で編んだ目の細かいかご)に納めたら引かないということの象徴だ」と反論し、兼続は発言を恥じて謝った。大坂の陣にも従軍し功があり、1616年に隠居料をもらった。

長谷堂城
勝成が奮戦した山形県山形市長谷堂にある長谷堂城

管理人・・・勇敢な武将で長谷堂城の攻防の際に上杉軍のある武士が「私は武者修行の者だ。今、首を一つ得たので進呈しよう」と最上軍に向かって言うと勝成は単騎で出て敵陣に突撃し首を一つ得るとそれを敵に返したそうです。
 後に政宗が勝成の子・小田辺茂成らを引き連れて徳川頼房のところに行った際に、そこにいた山田某が茂成に「その武者修行って言っていたのは私の父です」と伝えています。ちなみに名前の読み方は別の資料では『おたべ』になっていました。

参考文献:仙台人名大事典

UPDATE 2003年7月2日
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