直江兼続

(なおえかねつぐ)

生没年:1560〜1619年/ 身分:上杉家の家臣/ 官位(通称、号):山城守

長谷堂城
兼続が奮戦した山形県山形市長谷堂にある長谷堂城

【景勝を助ける】父は長尾政景の家臣で坂戸城主の樋口兼豊。母は与板城主直江親綱の娘。幼少から上杉謙信に小姓として仕え、1578年の御館の乱では上杉景勝に協力し勝利に導いた。1580年には直江信綱の跡を継いで直江姓を名乗る。その後の佐渡平定、小田原征伐、朝鮮出兵でも景勝を補佐してこれを助けた。
 1598年に上杉家が陸奥会津120万石を与えられた時には、豊臣秀吉の命令で出羽米沢30万石を兼続に与えられる。1600年に徳川家康から上杉家に上洛命令があった時、景勝と兼続はこれを拒否し会津征伐となった。兼続は徳川軍の来襲を待ったが上方での石田三成の挙兵で転進したので、4万もの兵を率いて最上義光に対して猛攻撃を加えたが、長谷堂城の攻防戦の最中に関ヶ原の戦いの結果を知って撤退する。

直江兼続夫妻の墓
山形県米沢市林泉寺1丁目2-3の林泉寺にある直江兼続夫妻の墓

【文武両道】1601年7月に景勝と共に上洛し家康に謝罪したので改易から免れたものの米沢30万石に減封された。それから兼続は城下の整備など藩に多大な貢献する。1604年には本多政重を養子に向かえ上杉家の安泰を計った(が兼続の娘が亡くなったので養子は解消となった)。
 大坂冬の陣でも鴫野の戦いで戦闘を指揮して豊臣軍を撃退する活躍をする。1619年12月江戸で死亡。米沢市林泉寺に葬られた。兼続は戦だけではなく、たくさんの文化人と交わり、論語などを出版した文武両道の名将として知られている。

管理人・・・主君・上杉景勝よりも有名な兼続さんです。閻魔大王や、伊達政宗との小判での話しなど逸話が多数ありますが、大坂の陣と関係ないため載せませんでした。大坂の陣に関係あるのは四方山話に載せています(また載せる予定)のでそちらを見てください。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年1月5日
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