阿部重次

(あべしげつぐ)

生没年:1598〜1651年/ 身分:下総佐倉1万石3千石の大名の子/ 官位(通称、号):作十郎

徳川忠長の墓
高崎市通町75の大信寺にある徳川忠長の墓

【養子】阿部正次の次男。下総佐倉1万石の大名である三浦重成の養子となり徳川秀忠に仕え近習となった。大坂夏の陣では病気だった重成に代わって出陣する。のちに重成に実子が生まれたため分家を立て近江浅井郡内に3千石を与えられた。1619年山城守の官位を与えられる。

【阿部家を継ぐ】1628年に兄の政澄が死亡したため阿部家の家督を継ぐ。1633年御小姓番頭となり、1634年には松平信綱や阿部忠秋と共に幕政に参加する。この時に対馬守に改めた。またこの年の9月には幽閉されていた徳川家光の弟・徳川忠長の所に行き自害をうながす。1635年に下野鹿沼内で1万石を加増され1万3千石の大名となった。

徳川家康像
重次が尊敬していた徳川家康像(岡崎城のもの)

【老中】島原の乱後の1638年に父の領地の内、4万6千石を与えられ武蔵岩槻へ移封され合計5万9千石の大名となると共に老中となった。関東方面で地震が起きる度に日光東照宮に行きその状況を確認する任務を果たす。1648年に父・正次の遺領摂津3万石を与えられ合計9万9千石の大名となった。1651年4月20日、徳川家光の死去にともない殉死する。法名・芳松院殿全厳浄心大居士。東京都台東区上野の東叡山現竜院に葬られた。

管理人・・・重次が殉死したのには、忠長を自害に追い込んだことにも理由の一端があるとのことです。また徳川家康を尊敬しており質素倹約のため登城には焼きおにぎりを持参して行き、それを包んでいた紙は鼻紙に使ったそうです。それを見かねた毛利秀元から鮭の切り身を分けて与えられたそうな。

参考文献江戸幕閣人物100話三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2004年4月14日
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