津野定勝(1521?〜1616?年)

官位・通称:中務少輔
 津野基高の子。妻は土佐一条氏の娘。土佐姫野々城主。津野氏は藤原氏の後裔で、祖・経高が910年に謀叛を企て伊予の河野氏に預けられたが、のちに許され高岡郡檮原に移り住んで勢力を広げた。
 基高の祖父と伝わる元実の時代には高岡郡・土佐郡の一部を支配する領主に成長したが、土佐一条氏との戦いで次第に衰退。定勝の時代には土佐一条氏の傘下となっており、1568年には一条兼定・宇都宮氏と毛利氏・河野氏・西薗寺氏が戦った鳥坂峠の戦いに従軍している。
 1569年、兼定の妹婿・安芸国虎を滅ぼした長宗我部元親から定勝に
「津野家にとって恨みのある兼定とは縁を切り、西進に協力するように」
 との申し出があった。これにより津野家は兼定派の定勝らと、先祖の恨みを晴らすべきだという元親派の家臣らが対立。遂に元親派の家臣らは定勝と弟の兵部と孫次郎を追放し、定勝の子・勝興を擁立した。
 その後、定勝は五台山吸江寺で僧になったとも、伊予に追放されたのち、しばらくして旧領の高岡郡松谷に戻って没したともいわれる。1616年7月9日に没したという。

高知県高岡郡梼原町松谷701に建つ定勝の墓
定勝の墓
UPDATE 2012年2月16日
Copyright (C) 2012 Tikugonokami.