十河存保(1554〜1586年)

官位・通称:河内守・民部大輔・隼人正
 三好長慶の長弟・之虎(義賢・実休)の次男。母は小少将三好長治の弟。十河氏は神櫛王の後裔・植田氏の支族で讃岐山田郡十河郷を支配した。戦国時代に入ると長慶の三弟・一存が養子として入り十河家を継ぐ。存保は一存の養子となり、1561年に一存の死に伴い家督を相続。
 和泉堺で所司代を務めていたが、1577年に阿波の国主・長治が殺されると、家臣に請われ阿波勝瑞城に戻り三好家を継ぐ。この頃、阿波・讃岐に侵攻していた長宗我部元親に抵抗し、元親に通じた家臣の鎮圧に務める。1581年、織田信長が元親と断交すると信長の援助を得て一時的に勢力を回復させるが本能寺の変で再び形勢が逆転。
 1582年8月28日、中富川の戦いで敗北し勝瑞城も落城寸前となったため讃岐に逃れる。信長の後継者の地位を固めつつあった豊臣秀吉を頼みに讃岐で抵抗を続けるが、牙城・虎丸城を落とされ本州に撤退する(異説有り)。
 四国攻めでは宇喜多秀家の軍に協力し讃岐山田郡二万石を賜った。しかし戸次川の戦いで戦死する。

香川県高松市十川東町にある十河存保の墓
十河存保の墓
UPDATE 2011年11月24日
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