三好長治(1553〜1577年)

官位・通称:彦二郎
 阿波勝瑞城主。三好長慶の長弟・之虎(義賢・実休)の長男。母は小少将十河存保の兄。1562年に之虎が戦死すると阿波三好家を継ぎ、重臣・篠原長房の補佐を受け毛利氏や織田信長らと戦ったが次第に不利になっていく。そこで1573年に主戦派筆頭の長房を滅ぼして信長との和睦を画策するが失敗している。
 1575年信長に通じていた長宗我部元親が阿波に侵攻し、1576年には細川真之が勝瑞城を出て敵対した。1577年3月初旬、追い詰められた長治は現状を打破しようと真之の籠もる仁宇谷を攻めるが、一宮成祐らが真之に味方したため敗北(荒田野の戦い)。長治は撤退しようとしたが救援の船が手違いで来ず長原で3月28日に自害している。没年については諸説ある。
 1575年に阿波国内で日蓮宗への改宗を強制した『法華騒動』を起こしたことで知られるが、日蓮宗と浄土宗・真言宗との争論があっただけで騒動は後世に作られた話だという説がある。

徳島県松茂町山ノ手の招魂社内にある三好長治終焉の地
三好長治終焉の地
UPDATE 2015年2月27日
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