知恵が薄い

 和議成立後、豊臣軍の二人の兵が和議について話をしていた。一人が
「この前、和議が成ったのは返す返すも大野治長木村重成の知恵が浅いせいだ」
 と批判すると、もう一人が
「重成殿の隊に属して終始行動を見てきたが、分別のある方だった」
 と不審がった。そこで批判した兵が理由を語り始めた。

木村重成の像
東大阪市若江南にある木村重成の像

 1614年12月13日、木村重成の鉄砲隊の一組が弾薬を切らしてしまう。重成の印がある書類がないと蔵の弾薬が取り出せなかったため、組頭が書類を取りに行き、その場で他の組頭達と話していると皆が涙を流し始めた。その様子を見かけた重成は不審に思い、信頼している小姓に
「何故、涙を流しているのだ。何事だ」
 とひそかに訪ねると
「和議になるという噂があります。我々ではそれを阻止できないので、力を落として泣いているのです」
 と答えた。
『何を言っているんだ?』
 重成が不思議に思っていたところに、同月18日、豊臣秀頼淀殿より治長と重成に使者があり和議の話が進むことになった事情を説明し
「少しも秀頼様のために悪いことではない」
 と伝えた。二人は
『今更言うこともない。秀頼様の御分別はごもっともだ』
 と思い、反対しなかったため21日には和議が成立。治長はともかく重成は和議のことは使者が来るまで何も知らされていなかったようだった。
 しかし後でよく聞けば一説には徳川家康の策略に淀殿がひっかかってしまったためだったという。その策略とは真田幸村長宗我部盛親毛利勝永の3人の印と右筆の筆跡などを似せさせ、秀頼と淀殿に使者を通じて偽手紙を見せさせたというものだった。その内容は下記の通りである。
幸村『望む国の中で20万石をくださるということですが相談の上返事をします。秀頼を出陣させるのは簡単なことです』
盛親『本国土佐をくださるということで満足に思っています。相談して返事をします』
勝永『豊前をお返し下さるということで高恩感謝します。相談して返事をします』
 秀頼は達筆だったため3人の直筆も右筆の筆跡も知っていたが、字も印もそっくりだったので疑わなかった。そのため何の策も講じず淀殿の考えに任せたというものだった。(『阪役叢話所引老士物語』)

管理人・・・・・・これのどこに重成の落ち度があるんでしょうか。そんな本人の知らないところで進んでいる謀略を見抜くのはまず無理でしょう。

UPDATE 2012年6月28日
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