幸村の建策(その1)

 1615年4月中旬、豊臣秀頼は諸将を集め軍議を開いた。
「各々いかに思うか」
 秀頼の問いに長宗我部盛親が口を開いた。
「まずは真田殿の意見を聞きたい」
 しかし真田幸村も遠慮して
「長宗我部殿が発言してください」
 と言い、互いに譲り合った。それを見かねた諸将が幸村に発言を勧めたため、幸村は自分の意見を述べた。
「では思うところを話します。去年の冬の陣では城の守りも堅く、兵糧も豊富にあったため、日数が経てば西国の大名を必ず味方に出来ると考えていました。しかし思ったよりも早く和睦となって堀も埋められてしまい、篭城する手立てが無く、ただ打って出て戦うしかありません。そこで勝つには秀頼様に出馬していただくしかないと考えます。手立てとしては宇治・瀬田の橋を落とし、そこを要害として堅く守り、状況に応じて手を打っていく。また運を天に任せてとにかく秀頼様に上洛していただき、一度天下の主になっていただく。洛中の政治を行われたなら、末代まで語りつがれるでしょう」

 この意見を聞いた盛親・後藤基次速水守久らの諸将は同意したが、大野治長が一人だけ反対。
「秀頼様の出馬には同意できない」
 すると諸将は治長に対して『治長の母親が関東に人質に出ており、心中が分からない』と疑い、結論が出ず仕舞だった。
「大野殿は秀頼様を大事に思って出馬のことを危険だと考えたのだろうが、結局は軍事に疎いからだ。仕方がない」
 のちに幸村はため息をついてそう語っている。(『明良洪範』)

真田幸村像
大阪市天王寺区玉造本町の三光神社にある真田幸村像

管理人・・・幸村と盛親の譲り合いですが、これは幸村の実力を盛親が認めていたのと、盛親が元は国持大名だったからでしょう。

UPDATE 2005年5月17日
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