隼人の腰抜け
1615年5月7日、大坂落城の際に城中の者と見える4〜500人が一ヶ所に固まっていた。それを茶臼山から見た徳川家康は
『これは幸いだ。徳川義直・頼宣にも見せてやろう』
と考え、使番を使って呼びに行かせた。しかし義直がなかなか来ないため、使番を呼んで
「隼人(成瀬正成)の腰抜けに義直を早く連れて来させろ」
と命じ、それを使番が義直の家臣の前でそのまま伝えた。すると正成は皆がいるにも関わらず大声で非難。
「私は今まで一度も腰を抜かしたような覚えはない。そのように言われる方こそ三方ヶ原の戦いで腰を抜かされた」
愛知県犬山市大字犬山字瑞泉寺26の臨渓院に建つ正成の墓
陣後、正成は名古屋から駿府に行き、家康の前で次のように弁明した。
「先ごろ大坂落城の日、義直様を茶臼山に呼ばれる時に遅いと腹を立てられ使番を通して『隼人の腰抜けめ、御供して早々に来い』と命じられました。私は幼い頃から仕えている者なので、どのように罵られようと『その通りです』と受け止めます。しかしその口上をそのまま考えもなく私へ伝えるような者が使番にふさわしいでしょうか。また直義様はまだお若いため、尾張徳川家の家中は私を大黒柱のように思っています。そこに隼人の腰抜けなどと言われては、私は重要なことが口に出来ず、他人も私のことを誤解するでしょう。それ故に失礼だとは思いましたが、あのような返答をしました。本当に失礼いたしました」
「誠にもってその方の言うとおりだ」
家康は自分の非を認めている。(『駿河土産』)
UPDATE 2014年2月15日
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