恥を雪ぐ

 1615年5月初め、徳川家康が伏見城の櫓から行軍を見物していた頃、井伊直孝は宇治の北・六地蔵より軍を出して大坂に向かっていた。そして伏見に着きかけた頃、直孝が自軍の旗が立っていないのを見て旗奉行の孕石備前と広瀬左馬助に使いをやって理由を聞いた。しかし二人は理由を告げず
「旗のことは二人に任せてください」
 とだけ返事をした。
「どうあっても立てろ」
 怒った直孝は二人に強く命令したが聞かず、伏見を過ぎてから立てた。これは家康のいる伏見を通ったため、それに配慮しての行為だった。
 やがて戦場に着き、5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で井伊軍は豊臣軍の七手組と戦い苦戦を強いられていた。その最中、備前は左馬助に向かって決意を語った。
「私は今年75歳で恥を雪ぐ機会は無いだろうから、ここで討死しようと思っている。だから退却しろ」
「武士の恥は同じ事だ。備前を捨て殺しにしたと言われるのは口惜しい」
 左馬助は備前と行動を共にすると言った。結局、二人とも旗一本ずつを地面に突き刺し旗竿に取り付き、ついにその手を離さずに討死している。(『常山紀談・老士物語』)

井伊直孝の墓
東京都世田谷区豪徳寺の豪徳寺にある井伊直孝の墓

管理人・・・二人は武田家の生き残りだったそうですが、武田家では大将の前では旗を立てないのが礼儀だったのでしょうか。それを直孝が知らずに無理やりにでもさせようとして、それを恥に思ったのか。それとも戦いの最中に旗が倒れることを不名誉に思ったのか…。おそらく後者でしょう。

UPDATE 2013年5月16日
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