伊達軍の味方討ち

 5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で船場町にて神保相茂という小領主の主従が残らず討ち死にした。これは敵に討たれたのではなく、味方に討たれたためだった。その犯人は伊達政宗率いる3万で、これを神保軍の中で生き延びた4〜5人が訴えた。
 それに対して政宗は反論。
「味方と知って討ったのは間違いない。政宗の軍法に敵味方の区別はない。前線より味方が後退し始めた時は、敵と一緒に討たなければ共崩れ(味方の各陣が共に崩れ敗れること)になって負けてしまう。家中の誰もがその軍法を守って、神保軍がこちらの先鋒に崩れかかってきたので討ち取ったのだ。わが軍が共崩れにならなかったことで徳川軍の勝利に貢献した。そう考えれば今度の味方討ちは非常な忠節となる。もし調査することになれば、詳しく事情を説明する」
 この主張が通り、政宗は罪に問われなかった。(『大坂夏陣推察記』)

瑞鳳殿
宮城県仙台市青葉区霊屋下にある伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿

管理人・・・天王寺・岡山での最終決戦で、としていますが、原文では
「5月7日、道明寺口の人数は敵から程遠いため戦闘にはならなかった。そこで全軍で大坂城に行き船場町より攻め込んだ」
 となっています。そのため、5月6日の道明寺の戦い説と、翌日の天王寺・岡山での最終決戦に別れていますが、
「道明寺口の軍勢の一部は5月6日の戦いで敵に遭わなかったため、そのまま5月7日に大坂城へ攻め込んだ」
 という解釈で良いと思います。

UPDATE 2014年2月1日
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