廉潔

 1610年10月18日、本多忠勝は家老に遺書を渡して亡くなった。その内容は『忠政は嫡子であるから武具など身の回りのものはすべて忠政に譲る。しかし今まで貯めておいた黄金一万五千両は小身(石高が少ない大名のこと)の次男・忠朝に与えよ』というものだった。これを家老から聞いた忠政は遺言に反発。
「親のものを嫡子がすべて継ぐのは当然のことである。たとえ親の遺言でも理に合わぬものに従うことはできない」
 そう言って黄金に封をしてしまった。家老は忠朝にもそのことを伝えたが「私は小身である。従って金もそこまで必要ではない。兄上は家臣なども多く戦がおきると金がかかって大変だろう。父上は私の身を案じられ、そのように言われたのであろうが、黄金を受け取っては義にもとる」と忠朝は気にする様子が無かった。

本多忠朝の墓
大阪市天王寺区逢阪2丁目8−69の一心寺にある本多忠朝の墓

 それを聞いた忠政は自分の発言を恥じ忠朝に黄金を譲ろうとしたが、忠朝は受け取らない。互いに譲り合っていたが、それを見た一門の者たちが大いに感じ入り、お金を半分ずつに分けることにした。忠朝はそれを承諾したが「何かのときに使わせていただく」と兄にお金を預けたままにしておいた。結局はそのお金を忠朝が使用することはなかった。(『古老雑記』)

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