先乗は誰だ?

 1615年5月9日、徳川家康の前で水野勝成
天王寺・岡山での最終決戦で先陣を切ったのは私だ。松平忠直の軍勢に紛れていた」
 と言上した。
「忠直の家臣の本多成重が真っ先に敵陣に乗り込んだと聞いていたが・・・」
 家康が疑問に思い成重を呼び出して尋ねたところ、勝成の主張に対して反論した。
 「それなら貴殿は敵は誰が大将だったかなどはお分かりなのですか。私は先日詳細に報告しました。貴殿も今詳しく報告してください。私は敵が油断している時に馬を乗り入って体勢が立ち直る前に崩して敗走させた。その時の落武者が曲輪の外に出たので、それに遭遇したのではないのですか」

本多家歴代の墓
福井県坂井市丸岡町巽町3ー3の本光院にある本多家歴代の墓

 すると今度は勝成が別の主張をし始めた。
「では、その方の次は私だ」
「それも信じがたい話です。我が軍の旗本は私の後にぎっしり詰めていたのに、どうして他の者に邪魔されるでしょうか」
 成重はまたもはっきりと論破した。すると家康が
 「勝成は筋が通らないことを言う。若い忠直がどうして先陣の邪魔をするだろうか。言えば言うほど若いときの働きがふいになるぞ」
 と言って納めたため、勝成は二番手に決まったという。(『異本大坂記』)

UPDATE 2012年6月30日
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