珍しい縁

 道明寺の戦い真田幸村伊達政宗軍が戦った際、伊達軍の騎馬が鉄砲を放つと霰のように弾が真田側に飛んできた。幸村の兵は全員が折敷き(左膝を立て右膝を曲げて、腰をおろした体勢。立て膝)、槍を敵の方に向け堪えた。その中に西村孫之進と言う者がおり、味方の死体を二つ重ねて楯として耐えていたが、銃弾の一つが死体を貫き孫之進の肩に当たってしまう。しかし浅く大した怪我にはならなかった。
 その時、槍を握っている左のコブシの親指がこそばゆくなったので、他の指四本で親指を握りこんで耐えた。命が危険なことを忘れて親指がこのようになったのは恐れているからだと思い、左右を見ると誰もが戦死していた。側に並んで折敷いていた者に弾が当たる音が強く響くと、自分に当たっているように感じた。この時に孫之進は伊達家の秋保甚平という者を討ち取るが、その時は誰なのか分からなかった。

誉田林古戦場碑
羽曳野市誉田3−2−8の誉田八幡宮にある誉田林古戦場碑

 落城後、孫之進はどの家にも仕えず江戸に住んでいた。そんな中、知り合いのところに行って話をしていた時に、一人の客が来た。その知り合いは客に対して孫之進を「大坂の陣に参加した物師(巧者)」だと紹介。その客は伊達家の武士で海道林右衛門という者だったので、興味を持った。
「誰の陣におられたのですか」
「真田幸村の陣にいました」
「さては5月6日の道明寺の戦いに参加されていたのでは。詳しい話を聞かせてください」
「話すほどのことはないですが、聞かれたのでお話しします。あの戦いはことのほか激しいものでした。伊達家の陣を7〜8町(約750メートル)ほど追い立てたところに、敵30人ほどが取り返して折敷いており、味方3人で敵の槍の間に向かってかかりました。一人の武将と槍を合わせましたが、最初の槍は綿噛(鎧類の胴の両肩の部分の名称。背面の押付けから両肩に続けて前の胸板の高紐に懸け合わせてつる装置)のはずれに当たって突き損じてしまい、二度目の槍は草摺(鎧の胴の下に垂れて、大腿部を覆うもの。大鎧には前、後、左脇に三間、脇楯に一間、合計四間を垂れる。腹巻、胴丸は細分して、六間ないし八間とし、五段下りを普通とする。腰の下にあって、草の摺れる部分にあるための名称という)の間を突いてはね倒し、首を取ろうとしました」
 孫之進は話を続けた。
「しかし身分の高い武将だったようで、彼の従者と思われる者達2〜3人に囲まれて手に持った刀で何度も斬られました。しかし、すべて具足の上だったので傷を負いませんでした。ですが敵の槍で腰骨を突かれて倒れて気絶してしまい、その後は覚えていません。後から聞いた話では真田隊が総軍でどっと押しかかったため、私が首を取られずに済み、突いた相手もきっと助けられて退いたのだと思います。その後、少し落ち着くと馬取弥右衛門という者が来て『これほどの傷で死ぬことはないだろう』と言いました。それが撤退する味方の耳にかすかに入りました。見捨てて逃げたのだと思いましたが、腰の手ぬぐいに水を浸して戻ってきて、私の口に絞って入れてくれたおかげで気が付き。弥右衛門の肩に担がれ城に帰りました。翌日はその傷のせいで動くことが出来ず、戦場に出ませんでしたので、思いもかけず命を拾いました」

伊達政宗の像
宮城県仙台市青葉区川内1の青葉城(仙台城)に建つ伊達政宗の像

 それを聞いた林右衛門は仰天。
「最初、槍を合わせられたのは侍大将の秋保刑部という者です。その間に駆け入った人物は刑部の子・甚平という者です。その話は間違いありません。私が甚平を陣屋に連れ帰りました。お察しの通り、一陣の大将です。その日の武功の証人には私がなります」
 林右衛門は成り行きを書いて花押を加えて孫之進に渡した。そして二人は数時間程、話しをして別れた。その後、孫之進は岡山藩主・池田光政に仕えている。(『常山紀談』)

UPDATE 2005年5月25日
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