生き残った六紋銭

 大坂の陣からかなり経った後のこと。永井直勝が五畿内の監司となって各地を見回りした際に真田幸昌が生き残って九度山にいることを聞き出して、幕府に訴え出た。
 それを京都所司代・板倉重宗が調べることになった。その頃すでに大坂城の落人を赦免することになっていたため、本来なら放っておいても構わないのだが、相手が相手だけにそうもいかなかった。そこで幸昌らしき60歳前後の人物を呼び寄せて、重宗自ら訊問した。
「その方が真田幸村の子・幸昌であるという訴えがあったが、はたして幸昌か否か、正直に申せ」
「思いもよらぬことです。しかし幸昌だという者があれば、それでも結構です。別に惜しい命ではありません」
 こうした言い方は別人ではしないだろうと判断した重宗は、その老人を京の栗田口において処刑し晒し首にした。その札には『この者は真田左衛門佐の旧住所に来て、とやかく申していた罪科により、このように処刑したのである』と書かれていた。(『落穂雑談一言集』)

真田庵(善名称院)
幸昌の育った和歌山県伊都郡九度山町九度山1413にある真田庵(善名称院)

Copyright (C) 2003 Tikugonokami.