長柄川の堰き止め工事

 1614年12月6日、徳川家康は大坂城を落とす作戦を思いついた。
「城の北西にある長柄村と東毛馬村に流れる川に乱杭(地上または水底の所々に順序を乱して杙を打ち込み、縄を張りめぐらし、敵の侵入を防ぐもの)・大石・土俵を積んで堰き止めて北西の尼崎方面に水流を変えさせれば、総構の天満や東堀(注:西の間違いか?)は干潟となって船場・中ノ島から歩いて渡れるようになろうだろう。そうして城を一気に屠ってやる」
 家康は計画を実行するため、毛利秀就・福島正勝の人夫1万5千人が作業にあたらせ、船百艘で土砂を運搬して堤防を築くことを伊奈忠政に命じた。
 同月9日、軍艦の滝川忠征・山城忠久が本営に来て
「6日から築いて長柄村の堤は高さ約5.5メートル、幅約27メートルとなり、長柄川の北へ流れ尼崎に行き天満川の水は枯れましたが、東大和川の水が堀に入ってくるため、鴫野・勢田の辺りで大和川の一部を堰き止めさせて下さい」
 と願い出た。

 この時、家康は中井正清と酒を飲み酔っていた。
「ここに住む魚を捕り兵士達に与えよう。しかし網だけだとなかなかたくさんの魚を捕るのは難しいな」
 と呟いた。これに対して正清は
「大和川沿いに住む魚はたくさんいます。人夫が1万あれば川を堰き止めてすべて捕ることができます」
 と答えた。しかし家康は何も返事をしなかった。やがて正清が立ち去った後、再び毛利秀就・福島正勝の人夫1万5千で今福の末、勢田辺りの大和川の流れを堰き止め網で魚を捕ることを命じた。
 正清・秀就・正勝の人夫で竹を編み石を入れあるいは土俵を集めて鳥飼村の曲がり目で堰き止めたため、大坂城の総曲輪の堀になっていた天満川・東堀・久宝寺橋沿いはすべて干潟となり、総攻撃すれば総曲輪の干潟になった部分はたちまち陥落するような状態になったという。(『武徳編年集成』)

管理人・・・上下の話を合わせると、空堀にするのと魚が大量に獲れたので一石二鳥でしたよ、ってことでしょうか。

UPDATE 2011年12月3日
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