荒尾但馬の智勇

 大坂冬の陣の初戦で岡山城主・池田忠継は神崎川付近での戦いに勝利して神崎川を渡ろうとした。その時、京都の二条城にいた徳川家康の目付だった城昌茂が見咎めた。 「この川を渡すことはできない。私は大御所様の御目付だ。背くことは許さん」
 忠継は非常に不愉快な顔をし反論しようとした時、池田家の重臣・荒尾但馬守成房が進み出た。
「なるほど、おっしゃることは分かりました。第一、川は深いですし敵陣は堅固なのでとても渡ることはできません」
 昌茂はうなずいて納得すると帰って行った。それを見送った成房は大笑いしたあと「彼と無益な論争をしてもしようがないです。気にせず急いで川を渡りましょう」と進言したため、忠継は非常に喜んで近辺の民家を壊して戸板や柱を筏にして川を渡り、豊臣軍を蹴散らし160の首級を獲った。
「城攻めの手始めに勝利とはさすがこの家康の孫だ」
 家康は非常に喜び忠継を褒めた。(『慶元摂戦記』)

荒尾家の墓
鳥取県米子市博労町2丁目59の了春寺にある荒尾家の墓

管理人・・・『慶元摂戦記』には続いて次のように記載されています。『真田幸村が「池田家が破ったのは外曲輪で特に要害というほどではないので、こちらには痛くもかゆくもない。城の構えを広くして終始持ちこたえるのは難しいので守りを縮小すべきだ」と後悔したが、その甲斐なく無益に要害を構えて兵士を失い豊臣軍の士気を低めた。』

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