大坂の陣オフ(1日目)

 2003年5月の3〜5日にかけて大坂の陣オフを行いました。まずは初日、近鉄で名古屋から鶴橋まで行き、真田丸さんと待ち合わせ阪南電鉄で堺に向かう。堺は大坂の陣の時に大坂から近いということもあって直接的な被害を受けた場所です(詳しくは堺占領を参考にしてください)。堺に着いてまず向かったのは月蔵寺。大野治胤のお墓があるところです。

月蔵寺

月蔵寺:昔からあるお寺って感じがしました。

大野治胤の墓

大野治胤の墓:どういう縁で治胤はここに葬られたんだろうか?

千利休屋敷跡

千利休屋敷跡:続いていった茶人・千さんの屋敷跡。大坂の陣とこれっぽっちも関係ないけど行きました。

今井家屋敷跡

今井家屋敷跡:その後に行った堺の豪商・今井宗薫の屋敷跡です。大坂冬の陣では徳川家寄りだったこの屋敷に片桐軍が逃げ込み、それを追いかけてきた豊臣軍との戦いがありました。そして片桐軍は負け宗薫・宗呑親子は捕えられてしまっています。

 その次に向かったのは今回のメイン・南宗寺。徳川家康後藤又兵衛に殺されて葬られたという伝説があるお寺さんです。ほんとかいな? って思ってしまいますが、まあ多分ただの伝説でしょう。話が滅茶苦茶雑だし。どんだけ滅茶苦茶かは下記を参照してください。
 『家康戦死説:1615年5月7日、徳川家康は大坂城を目指して進撃し、一時平野で軍を止めていた。そこで家康は小便のため陣を離れた時、硝煙の臭いを察し地面に伏せた。すると豊臣軍の仕掛けた爆薬が大爆発を起こした。家康はなんとかその場を逃れたが、そこに現れたのが我等が真田幸村(えっ?どうやって本陣まで来たの?)。彼は家康ストーカーなので当然のごとくストーキングしまくった。そこで家康は葬式用の輿の中に入り堺の方まで逃げたが(大軍なんだから誰か助けてやれよ)、そこにたまたま紀州から帰ってくる後藤又兵衛が通りかかり(ええ!?あんた前の日、死んでるじゃん)、輿を怪しんで槍を刺した。脇を突かれた家康はそれを耐えて自分の血がついた槍先を拭いたので又兵衛は気づかず去っていった。その後、大久保彦左衛門が南宗寺まで家康を連れて行き治療したが重傷のため亡くなってしまった』
 ごめんなさい。これを信じろっていう方が無理だと思うんですけど、、、。情報の少ない昔だから雑なのは仕方がないけどね。ただこの伝説ではなくてきちっとした話があってそれを基にしている可能性もあるけどさ。

南宗寺

南宗寺:そんなこんなの南宗寺です。大きなお寺で千さんの茶席などがあります(見てないけど)。

徳川家康の墓

徳川家康の墓:前と後ろから写したのですが、どっちから拝んでもいいような感じになっています。

 堺はこれで終了〜♪ 本当は小西行長の屋敷跡とかもいったけど石碑だけだし大坂の陣と関係ないので写真はあるけど載せてません。
 そして阪南電鉄で大阪市に戻って今度は大坂城三の丸の南側を回りました。まずは八丁目口。自分が写した長宗我部盛親の陣跡辺りではなく、井伊直孝がいた本当の八丁目口です(変な日本語)。そしてその後、鎌八幡とかを回った後、ユッキーが冬の陣の時に前田軍に嫌がらせをしていた小橋の笹山に向かう。

小橋の笹山

小橋の笹山:真田丸さんの推測によるとここが小橋の笹山だということです。実際ここは緩やかな坂の頂上になってました。う〜ん、もっとそれが分かる角度で撮影すればよかったな。ちなみに住所は大阪市天王寺区小橋町。鶴橋の駅からすぐ近くです。

 これで1日目は終わり、いよいよ楽しみの食事。真田丸さんに連れられて日本橋の焼肉屋さんに行きました。そこで真田丸さんにむっちゃサイトのことを褒められていい気になって飲みすぎてしまい、ベロベロ。よくまあホテルにたどり着けたなという状況でした。またまた調子に乗ってしまう悪い癖が出てしまった、、、。かなり反省\(__ ) 相変わらずお世辞に弱いのね。私。

コラム:この日は本当は佐助さんも参加する予定だったのですが、残念ながら体調が良くないということで二人だけになってしまいました。
 堺市ですが、なんか案内地図みたいなのは各所にあるんですが、その内容が分かりづらい! 正直、もう少しなんとかして欲しいです(案内板を作るとか)。何度迷ったことか、、、。
 このオフ会まだまだ続きます。次は道明寺・八尾・若江だ〜〜〜ヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノ


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