大阪城周辺の史跡・平成16年(2日目の前半)

 翌日、四条畷市に移動する。大坂夏の陣で徳川秀忠が大坂城へ向かう途中に陣を構えた忍ヶ岡に行くためである。ここも徳川軍が勝ったからって御勝山に名前を変えられてしまっている。勝てば官軍、地名でも何でも変更できるのである。
 それはそうと再び仙流斎さんと合流し忍ヶ岡駅を降りて歩いて忍ヶ岡の小山に建つ忍陵神社に行く。

忍陵神社

忍陵神社:う〜ん、、、ただの神社ですね。

 続いて向かったのが鴫野。一度は行ったが写真を撮り直したかったのとその周辺に史跡があることが分かったので再び訪れる。

鴫野古戦場跡の碑

鴫野古戦場跡の碑:この日は参議院議員の選挙で休日にも関わらず人が多かったです。でも気にせず碑を囲っている柵に登って撮りました。

八剣神社

八剣神社:鴫野古戦場跡の碑の向かい側にある神社。この神社のすぐ隣にある大日寺の住職さんによるとここらへんに上杉景勝が陣を構えたそうです。当時この辺りは湿地帯でここらくらいしか陣を構える場所がなかったためだそうです。

 次は木村重成の母・宮内卿局の屋敷があったという場所に行く。しかしその住所が城東区森之宮1〜2という非常にあいまいな場所。

宮内卿局の屋敷跡

宮内卿局の屋敷跡:ということで森之宮の一部を適当に写しました。

 続いて今福へ。ここで写真を撮り直した後に佐竹義宣が冬の陣に(夏の陣という説もあり)陣を構えたと言われている若宮八幡大神宮に行く。

若宮八幡大神宮

若宮八幡大神宮:佐竹家が奉納した矢がここにあったそうですが、明治18年の洪水で無くなっちゃったんだそうです。

鯉塚

鯉塚: 続いて行ったのが大長寺にある鯉塚です。これがどんなものかは下の解説を読んでください。
 「1668年に6尺有余(180cmより少し大きいくらい)で背中に模様がある鯉が淀川で生け捕りにされ見世物にされたが、まもなく死んでしまう。
 そこで大長寺に葬ったところ、その夜に当時の和尚さんの夢枕に現れて「我は元和の合戦で豊臣軍として戦って討ち死にした」と語った。そこで『滝登鯉山居士』の法名を与えられねんごろに弔った」
 まあ要するに鯉は豊臣軍の兵士の生まれ変わりだったってことですね。

 次は備前島へ向かう。そこは徳川軍が大砲でぼっかんぼっかん大坂城を狙い撃ちした場所です。

片町

片町:向かう途中にあった片町。昔は片原町と呼ばれた場所で今福の戦いの時に佐竹軍がここまで大坂城に肉薄したが、木村重成達と戦って追い返された場所。

備前島

備前島:備前島を対岸から写したもの。今は当然陸続きになっています。右側にうっすらと見えるのが大阪城天守閣。こんだけ近かったってことですね。


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